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661/1096 過ぎたことは、だいじょうぶ

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で661日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

661日目・・素敵な俳優さんが自殺で亡くなられたことを知って2日目。最初に衝撃を受けたときから今の時点まで変わらないのは、悲しいという思い。悲しい・・惜しい・・・寂しい気持ち。
それから、彼は今仏様であるということを尊重する自分の思い・・・

お疲れさまでした。幸あれ、幸あれ、、そんな思いが、自分の心のバランスのために湧いてきて、悲しみと向かい合わせになってシーソーに乗っている。どちらかが重くなったり、たまに釣り合ってみたり。

わたしたちが、わたしたちの死を「終わり」と捉えるほど、その終わりをどう迎えるのかに重要性を見出そうとしてしまう。どう訪れ、どう飾り、どう現世に言い訳をし、どう俗世の価値観から見て納得するのか。そんな事ばかり考えてしまう。

でも、それをいくらしても、エラ呼吸の世界から肺呼吸の世界に移ったものに対する「エラ呼吸の世界からの価値判断」に終止していることを忘れたくないと思う。それを忘れないでいるだけで、わたしには、溺れずに済むものがあるから。可哀想だとか、良い悪いだとか、そういうものを着込んだときの、暑い寒いの外にいられるから・・・

素敵な人だったなと思う。亡くなっても彼は素敵なのは変わらないと思う。それから、彼の生の終わりが自死であったことが、彼の痛みや苦しみが「死すほどに」と我々が想像するものであったことを証拠付けるものではないと思う。わからない、ということをこんなにも尊重させる機会だ・・・

彼の魂が、美しい景色を見ていますように。安堵の中にありますように。そんなふうに自分の仏教洗脳を利用して祈ることしか、シンプルにそれしかないと思う。

自分は死に向かってあまりに不器用だ。自然界はわたしたちが簡単に動揺してしまうこんな不安定を含んで、きっぱりと完璧に大丈夫。ああ、それがよかった。彼に、わたしたちに、よかった。
だから、素敵な同胞を愛して、祈ろう。あなたに、幸あれ。。。。

そしてここでこう書くと残酷なほどにすっぱりとして見えますが、わたしは今日とても忙しい。すべからく、今日を進みます。ブログを書いて、髪のカラーを変えて、歯医者もあってすぐに始まる企画についてもあれこれと・・まだ発想段階の企画への妄想も、絵の練習も!

燃えよドラゴン!いや、わたしはドラゴンじゃないけど燃えるわよ!
素敵な人への祈りをポケットに入れたまま、燃えるんだ。

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わたしはかつて、恋愛に溺れることでしか自分のバランスを保つことのできない人だった。その渦中にいるときの苦悩を今も覚えている。かつてと言ったって、過ぎ去ったという意味ではない。今だって状況さえ揃えば簡単に、またそうなることができるだろう。

若かりし頃に大恋愛した相手がいた。当時のわたしは、彼と二度と離れない磁石でくっついていたかった。溶けて融合して、一心同体になりたかった。時間を止めて、相手を止めて、究極の相思相愛を永久に抜けない釘で留めてしまいたかった。

相手が自分ではなくて別の個人だから愛せるというのに、それをバカみたいに嘘みたいに当たり前のことだと認めていながら、そのことをこの世を恨むほどに憎んでいだ。なんという拷問だろう。相手はわたしじゃなくて、未来にあらゆる可能性を持った、自由なひとりの人だなんて。いつだって常に、離れ離れになる可能性があるだなんて。わたしは相手の考えていることを、少しもわからないだなんて。相手の思いを、少しも支配できないだなんて。文章にしてみるとこんなにも怖い感覚で、心はメンヘラ色に染まっていた。

耐え難いほど、大好きだった。相手のにおいも細胞も指のシワも変な笑い方もこの世で唯一の貴重なものだと四六時中思っていた・・・だから、男なんていっぱいいると言われてもその瞬間耳の穴がふさがってよく聴こえなかった。嘘っぱちだい!彼はこの世にひとりしかいないんだぞ!といつも思っていた。

いなくなったら生きていけないと思った。離れてしまうなら殺してしまいたいほどだった。こんな阿部定心の経験のある人が、きっとたくさんおられることと思う・・これは悪いことで、わたしは間違っていたのだろうか。あのころのあの自分を、わたしは自分でどこまでも擁護できてしまう。純粋で幼い心だった。

そんなにも焦がれた相手を、わたしはその後忘れた。まさかのまさかだけれど、忘れた。(※理由はこちらに書いてあります。有料ですし、とても悲しい内容なので、つらい恋愛の経験に思いを寄せたいお方のみ、どうぞ・・)

当時の自分にそれを言ったら、未来のわたしを殺そうとするだろう。そんな未来を消そうとしただろう、それが絶対の正解だと思うからではなく、頭では不正解だと思いながら。

それは、火事を見て悲しみでいっぱいのときに、いずれすべてのものが消えてなくなるのだという知識が心になんの訴えもないのと同じように。自分を消せば自分がいなくなるという知識は、自分を止めるブレーキにならなかったろうと思う。未来を受け入れられない心で、自分を殺したかったろうと思う。そんな気持ちが理解できる。

わたしはあの盲目だったころの自分より、今の自分が優れているとは思わない。環境によっては未来を消したくなるような自分もいて、そんな自分を平常の自分よりも劣っているとも少しも思わない。状況によっていろんな反応をする、ザ・生命体だ。刺激によって、悲しんだり喜んだり、なにもかも破壊したくなったり。それも自分、あれも自分。これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛ってなもんです(昭和)。

あれからもう、25年の月日が経つ。自分はあのころの自分と、あまり変わりなく今日まで生きている。けれどもそういえば少し前にも、子どものころあれほどに自分を熱狂させたドラクエⅢを買ってプレイしてみて、当時とは違って落ち着いた自分がいて驚いた。自分はいつの間に変わったのだろう。

食べて、寝て、気の向くほうに寄っていって、
うまくいったり、いかなかったりしながら、
どこかに心を預けたり、運命に流されたりしていて、

わたしは気がついたらどうも、前の自分ではないようだ。

わたしは、ゆっくりと、時間をかけて知らぬ間に変わっていくことがある、ということに、いつも気がついていたいと思う。
そう思えるだけで、ポロポロと解除される焦りがある。今のままじゃダメだ、自分でなんとかしなきゃ、今すぐ変えなくちゃ、自分で解決しなくちゃ・・それは、本当にそうだろうか?

時間がゆっくりと変えてくれること。
時が知らぬ間に変えてくれること。
時間をかけなくては変わらないこと。
自分のコントロールの外にあること。
誰かに頼って初めてシフトすること。
逃げるほうが良いこと。
泣いてばかりいていいこと。
自分じゃどうにもならないこと。

人生はそんなことばかりだ。
それらがなにかに押し流されていく。
流されて、変わっていく。
あまり、ほとんど、自分の力ではないと思う。

わたしたちって、そんなにわたしたち自身のものなのだろうか。
自分に湧き上がってくるものは、どこからやってくるのだろう。

意外と自分が自分のものでもないと思うと、なんかけっこう大変だ。大変だから、自分をいたわってあげたくなってしまう。いたわってあげると、一寸先の未知にもきっと、いたわりがあるような気がしてくる。大丈夫な気が、する。同じ湧き上がってくるものが、いたわる前とは違って見えてくる。

どうにもならないことがいっぱいあるだなんて、人生は切ないな。ねえ、切ないね・・!それでいいのだと思えるだけで、ちょっと気分が違うけれど。
時間任せ、神さま任せ、天任せ、ほんとうにそれでいいと思えるだけで、知らぬ間に変わってゆくと思えるだけで、ちょっと慰みになるけれど。そしてその慰みがあると、この切ない人生が、安心の掌の上にあると思えてくるけれど。。。

いろんな自分がいて、どの自分も「そのときはそう在るしかなかった」と思うことが、わたしがその慰みを持つ助けになってくれている。神さまの選択だもの。

過去は、いいの。いいのよ。それでよかったのです。よくないのに、それでよかった。嘘みたいなのに、よかったことの、集まりなのです。
そう思うことがすごく冷たく思えることも、決して許してはいけないことも、もう、いいのだと思っていいのです。どうにも信じられないけれど、それで大丈夫なのです。

許さないと決めたことを、新しく人生の時間を使って、意図的に新たに再度、許さないと選び直すことはできます。でも過去に起こったことは過ぎ去ったことで、それは、それでよかったのです。またそこから、変わって生まれて転じて、また良かったことになっていきます。

この世もあの世も、今日もこんなに切ない世界に存在しているみなさん、今日もお疲れさまでした。

心を込めて愛を込めて、”それではまた、明日ね!!”

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