伝えたい欲求と、感じたい欲求。
2023年11月17日、オンラインでこんなイベントに参加した。
【言葉と、言葉でないもの】
主催:ボーダーレスてつがく
身体の動きや絵など「言葉でないもの」で何がどこまで伝えられるのか?
そしてその体験を「言葉」で語り合ったら何がおこるのか?
そんな実験的な哲学イベント。
面白そう!
僕の職業はイラストレーターで、言葉以外ものを用いて何かを伝えるということを日々の生業としている。
僕は常に「イラストはコミュニケーションだ」と思って仕事に取り組んでいて、特に僕のような商業イラストレーターは「伝えたいこと」や「伝えなければならないこと」が明確にあって、それを表現しなければならない。
「言葉」を補い「言葉」に補われつつ、時には「言葉以上」に伝えなければならない。そこにはいわゆる「言葉では言い表せないもの」なんかもあったりして、もし言葉にしようとしたら何行も費やさねばならないことでも、イラストならば一目で伝える力があると信じて取り組んでいる。
そんな僕にとってとても興味のそそられる内容だった。
イベントでは、今の気持ちを体の動きで表現し、それが他者にどんな風に伝わったかを語りあったり、
紙に一人ずつ順番に自由に絵を描き足していって、全員で1枚の絵を完成させる体験を通じて何を感じたか。
といったことをした。
最初に体の動きのワークをした時は、僕も含め参加者がまだその場に慣れていないこともあり少々みんな固くなっている印象だったけど、一緒に絵を描いていくころには緊張も和らいできて楽しい時間が過ごせた。
印象に残ったのは、絵の描き手側に「ちゃんと伝えなければ」という気負いが少ない、伝えなければならないという責任感のようなものが言葉に比べて少なかったという意見があったこと。
確かに明確なゴールのない絵で良いならば、言葉よりも受けて側に委ねる部分が多く、発信側の責任は曖昧になり、同時に受けて側も正確に読み取らねば、という気負いもなく自由でいられる。
これは「言葉でないもの」特有のものだろうか?
確かに言葉で表さない分、曖昧が許容される面は強いと思う。
だけどここに「○○を描いて次の人に伝えなさい」という前提が加わると、とたんにそこに評価が発生し、発信者にも受信者にもやはり気負いや責任感は生まれると思う。
実際に僕は動作を用いるワークのとき、ジェスチャーゲームのように「上手に表現して伝えなければ」という意識が働いてやや緊張していたし、もっと言えば「絵を使って何かを伝える」というこのイベントの説明を読んだ時点で、強い興味と同時に「自分の職業上、上手く描かなきゃって緊張してしまいそうだなぁ」なんて、参加することに二の足を踏んでいたくらいだ。
とはいえ伝えるべき明確なものが特定されていない場合「言葉でないもの」の気楽な自由さは確かに感じるし、世界もそれを「言葉」よりも許容しているように想う。
自由による狭さ、限定による広がり。
言葉にはある程度の共通した意図(意味)を「限定する」働きがあって、その働きがとても便利な時もあれば、すごく足枷になる時もある。
言葉による共通の輪郭を得るために切り捨てた収まらなかったモノたちをどうにか伝えたいと願ったり、汲み取りたいと願ったり…
きっとアートの多くはこれなんだと想う。
でも同時に言葉の持つ力も感じた。
「限定」により「共有」される「広がり」。
「言葉」で表せられない想いを込めた絵画や音楽などのアート作品を見た時、その作品の持つ情報を、見ていない人に共通の認識として伝えられる人は、たぶんいないんじゃないかと思う。
最終的には「とにかく一度観て(聴いて)みて!」としか言えない。
そう言った意味では、「言葉でないもの」の発信の広がりは一次接触にほぼ限られてしまうような気がする。
表現の自由さ、受け取り方の自由さがある分、同じ認識を共有しづらい。
「言葉」によって与えられた輪郭は、誤差はあれどある程度共通の認識をもって二次接触、三次接触と広がっていくことができる。
曖昧としたものに共有できる輪郭を与える「言葉」の素晴らしさよ。
「自由」による「狭さ」と「限定」による「広がり」という面に着目しても、「言葉」と「言葉でないもの」を考えるのは面白いと思った。
ただ、言葉はおそらくはそういった「ある程度の正確さを持って情報を共有するため」に生まれ、「そのためにある程度の自由さを切り捨てざるを得なかった」ツールなんだと思うけど、面白いのはやはりそこに挑む表現者たちのいること。
「言葉で表せないもの」を絵や音楽やダンスで表そうとする人たちがいる一方、言葉の共有力を駆使し、組み合わせたり逆手にとったりと、言葉で表せないものを言葉で表そうとする人たちもいる。
イベント終了後のアフター雑談会(zoomに居座ってお酒飲みながらの談笑)でも出た話題として、「言葉」と「言葉でないもの」を対比してみるのも面白いけど、「言葉」のみを使って「言葉のもつ限定性」を超えていく試みもしてみたい。
言葉の持つ既存のルールを外してみた先に、果たして何があるのか?
それは「言葉でないもの」を表現する僕の生業にも、何かしらの発見があるのだろうか?
それにしても生きる上で、伝えたい欲求と感じたい欲求の、
なんと強く、時に浅ましく、自由で、不自由で、
そして愛おしいものかと思った。
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