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何年かしてきっと思い出すであろう11月のこと。【前編】

11月はなんだかちょっと、不思議な時間が流れていた。
再会とお別れと新しい出会いに満ちあふれていて、「時空」とか「いのち」みたいなことを考える機会がすごく多かった。
スピリチュアルな話ではなく、誰にでも訪れる潮目の変わり時が訪れているということなんだろうと思う。
でもそれもいったん落ち着いてきた。いろんなことがはっきりわかるように始まったり変わったりするのは、たぶんこれからだ。
なんとなく、直感的にという感じなんだけれど、私はこの11月のことを何年かして思い出す気がする。ひと月に起きたさまざまな出来事や出会いが、後になって何か大きな意味を持つように思うのだ。
その中から備忘録として、愛知に出張した数日のことだけここに書き留めておく。

11月20日(火)
朝、のぞみに乗る。新幹線は久しぶりだった。
講演をふたつ依頼されて、愛知県に向かっていた。
ひとつは図書館研究会で、高校の司書さんが集まるもの。もうひとつは、母校、S高校での生徒たちを対象にした進路講話だった。
どちらも、S高校校長T先生からのお声がけとご配慮で実現した。本当にありがたいことです。

この日は、午後早めに名古屋駅に着いて愛知県図書館へ。
T先生とお会いする。昨年からメールや電話で連絡を取っていたけれど、顔を合わせるのは初めて。でも「はじめまして」な感じなのはほんの一瞬だけで、あとはもう、T先生に教わったことがあるんじゃないかと思えるくらいにしっくりとお話ができた。

講演のタイトルは「本がもたらす出会い」とさせていただいた。
子どもの頃ことや、大人になって図書館で働いていたときのこと、小説を出してからめぐりあった人や出来事、これからやりたいことなどを話す。
私が小説を書くきっかけとなった氷室冴子さんの名前を出すと、同世代の司書さん数人から笑顔やうなずきのリアクションがきた。やっぱり氷室冴子さんは少女小説という時代を築いた作家なんだなと実感する。

国語教諭も参加しているとのことだったので、現代文(特に、小説の登場人物の気持ちを述べよ、というようなもの)の難しさについても少し触れた。拙著「きまじめな卵焼き」が私立中学の入試問題に使われたのだが、私が解いてみたら模範解答とぜんぜん違ったというようなこと。先生から質問も上がった。本当の正解がない問題に、採点をつけなくてはならないのは大変なことだ。もっと大変なのは生徒のほうだろうけど。「模範」って、いったいなんだろうね。

ちょっと早口だったのか、用意していたことを話し終わっても時間があまってしまい、とっさにドラマノベライズの書き方や裏話なども。思いつくまましゃべってしまったけど、講演後のアンケートを読むと楽しんでくださったようでよかった。連続ドラマのノベライズをやっている期間はスピード勝負なのでほとんど他の仕事は受けられなかったし、体力的にもなかなかハードだった。でも、あの5作が確実に書く筋力をつけてくれたなぁと思う。

その夜、T先生のはからいで、私が高校生のときに数学を教えてもらっていたO先生を呼んでいただいて3人で食事をした。O先生が他校で校長をしていたときにT先生が教頭だったそうだ。こういうのをご縁というのだろうけど、それを繋げようというT先生の心づくしがなければ私とO先生が再び交わることはできなかった。ありがとうございます。

私は特に目立つ生徒ではなかったので、O先生が本当に私のことを覚えているか半信半疑だった。でも事前に、T先生が卒業アルバムから引っ張り出してくれたショートボブの私の写真を見て、O先生はすぐに分かった様子だったらしい。
O先生にお会いしたら「覚えとるよ。(先生と私は)よくしゃべっとったよね」と言うので、うん、よくしゃべっとったよなあ、と思う。
私は、数学はぜんぜんダメだったけどO先生のことはとても好きだったから、なんだかんだ話しかけていたのだ。お互いに、会話の内容よりも「話した」という時間が記憶に刻まれていた気がする。
O先生は会っている間、ずっとずっとずっと、ずっとニコニコされていて、何度も「うれしいなあ、ああ、うれしいなあ」と目を細めていて、すごく幸せな気持ちになった。

「教師をやってると、『無常』っていうことを思うね。毎年、違うんだよ。生徒の雰囲気とか、時代の空気とか。やるべき単元は一緒なのに同じプリントを使えないんだ。だから毎回、作り直してた」
数学が好きで好きで、数学の面白さを伝えたくて教師になったとO先生は言った。私が高校時代に悪戦苦闘していたプリントはすべて、私たちに合わせて作られたそのつど一回きりの彼のオリジナルだったのだ。
先生のそんな想いを、30年経ってからやっと知った。

訃報もいくつか聞いた。
驚いたし悲しかった。
思い出話をするときの内容は同じなのに、いると思っているのと、いないと知っているのとでは、ぜんぜん違うのだった。

「人と人とが会って話をして、自分が嬉しいと思って相手も嬉しいと思ってくれるなら、人生でそれ以上意味のあることなんてないんじゃないかって、この年になって思うんだ」
O先生はそんなことも言っていた。
無常の中、生きて会えることの尊さをかみしめる。

帰りはT先生が大曽根駅まで送ってくれて、O先生と一緒に中央線に乗った。
考えてみたら、私と先生は十歳ぐらいしか違わないのだ。上にも下にも、私の周囲にいる十歳差の人たちのことを思い浮かべ、そんなに変わらないじゃん、なんて思った。
O先生は私より先に電車を降りた。
別れ際、「今度は横浜で会おうなあ。おれ、そのときまで頑張るわ」と言っていて、失礼かもしれないけど彼を友達みたいにすごく近く感じて、私は少しだけ泣いた。
なんの涙だったのか、今ゆっくりと考えている。だけど答えは、出さなくていいのかもしれない。

【後編】に続く。