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【ショートショート】喋ったら負け

商業施設内の女性化粧室に入った。右に3つ、左に3つある個室のうち、左奥の1つを除き、全て使用中だった。私の前に若い女性が待っていた。左奥が空いていることに気づいていないわけはないだろうから、きっと、入ろうとしたらトイレットペーパーがなかったとか、鍵が壊れていたとかなにかで、使うのをためらったのだろうと解釈した。私も残り5つもあるのだから、すぐにどれかが空くだろうと思って彼女の後ろで待った。

ところが、どのドアも開く気配がない。物音ひとつせず静まりかえっていた。2、3分が経った。揃いも揃って、5つとも頑なに閉ざされたままだった。

まもなく私の後ろに、年配の女性が入ってきて並んだ。「ありゃ、混んどる」と言いながら、首を伸ばして個室の方を覗いた。左奥が空いていることに気づくと、先頭の女性に「ちょっと、空いとるじゃないの、使わんの?」と訊いた。先頭の女性は無言で首を横に振った。

年配女性は胡乱げに「どうしたゆうんね?」と言いながら進み、左奥の個室の前に立った。その瞬間、彼女は後ずさりながら「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。「ちょっと、ちょっとあんた来てみんさい」と私を手招きしたので行ってみると、中には便座に腰掛けた猿がいた。人差し指を口にあて、「喋るな!」と言う合図を送っていた。私は驚きのあまり、声も出なかったが、年配女性は興奮して「なんで?なんで、こがなところに猿がおるん?」と叫んだ。

次の瞬間、閉まっていた5つの個室のドアが一斉に開き、どのドアからも猿が出てきた。左奥の個室にいた猿が先頭になり、そのあとを他の猿たちが飛び跳ねたり、手を叩いたり、大騒ぎをしながら出て行った。

若い女性が、ようやく口をきいた。「ああ、怖かったあ。喋ったら猿にしちゃうぞ、って」
「猿に言われたんですか?」と私は訊いた。
「そうなんです」

その時、私たちの後ろを7番目の猿が、やや遅れて出ていき、列に追いつくのを見た。猿たちはゲームでもしているみたいに、とても楽しそうだった。

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