見出し画像

【桜 三部作#1】徒桜(あだざくら)

妻の模様替えの頻度が増していた。ちょっとしたものから大掛かりなものまで。予告はない。だから、僕は夜、酔っ払って帰ると、昨日まではそこになかったタンスに脚をぶつけたりした。うちの近所はみな似たり寄ったりの建売り住宅だから、妻が寝てしまってから帰宅すると、帰る家を間違えたかと思うこともあった。

なんでそんなに模様替えをするのかと聞いた。「さあ、模様替えに理由なんてないわ。誰でも衝動的にするものでしょ」と彼女は答えた。うちの母親は滅多に模様替えなどしなかった。するとしても、何か月も前から、ここはこうした方がいいかしら、ああした方がいいかしらと家族を巻き込んで悩み、いざ決行の日は父親や僕も駆り出された。家具を移動するのは肉体労働だ。男だって一人では無理な場合もある。しかし妻が模様替えをするのは決まってウィークデイの僕が出勤している日中だ。妻がどうやって重いタンスやテーブルやピアノやベッドを動かしているのか謎だった。便利屋でも呼んでいるのならわかるが、その形跡もなかった。

その日は模様替え決行日だった。僕がちょっと皮肉めかして「また衝動に駆られたんだね」と言うと、妻は「まあそうね」と返事した。「ピアノの向きを変えるのに苦労したわ。でもこの方が弾いている時、気分がいいの」「ねえ、どうやってピアノなんか動かせるの?相当重いだろ」「コツがあるのよ」妻はそれ以上は教えてくれず、夕食の準備を始めた。

夕食を食べながら、妻が言った。「私が模様替えをするのが、あなたは気に入らないのね」「そんなことはないけど、重たい家具を動かすのは大変だろうと思ったんだよ。僕の休みの日なら手伝えるのに」もちろん、こんなに頻繁に模様替えされたら落ち着かないのも事実だ。しかしそれは口にしなかった。妻が模様替えを「はけ口」にしていることを、僕は薄々気づいていたからだ。模様替えくらいで済むのならそれでいいと思っていた。何となくお互い黙ったまま食事をすませた。

その晩、真夜中にふと目が覚めた。隣に妻はおらず、ドアの方を見ると、リビングからの明かりが漏れていた。気になって僕はベッドから起きてリビングに行こうとした。ドアは向こうから何かで塞がれているようで、5センチくらい開くものの、それ以上は無理だった。「おい、葉子、何してるんだ」

返事はない。寝室の窓から外に出て、リビングの方にまわり、中を覗いて僕は呆気に取られた。ピアノが部屋の真ん中にあって、その周りを囲むようにソファ、ローテーブル、サイドボード、本棚などが並び、床には本や小物が散乱していた。寝室へのドアはサイドボードが塞いでいた。妻がピアノにもたれ掛かって、眠っているのが見えた。むろん鍵がかかっていて外から入ることはできない。「葉子」と呼んだが妻は起きなかった。玄関の鍵はリビングに置いたカバンの中に入っている。どうすることもできず、僕は仕方なく寝室の窓から中に戻って寝た。

翌朝、目が覚めた時、妻は隣で寝ていた。そっとベッドから起きて、ドアに手を掛けると簡単に開いた。リビングは綺麗に片付いていて、家具は夕べ僕が寝る前のままの配置だった。コーヒーを淹れて、妻が起きてくるのを待った。夕べのことを聞かなくては、と思ったのだ。しかし、出勤の時間になっても起きてこなかった。僕は妻を寝かせたままにして出かけた。勤務中、気になって何度も電話をしたものの応答がなかった。

急いで帰宅した時、妻は家にいなかった。ふと見ると、テーブルの上に書き置きがあった。

「模様替えはもうやり尽くして、他にやりようがなくなりました。ごめんなさい、さようなら。葉子」

立ちすくむ僕の足元に、どこからか桜の花びらが舞い降りた。開いていた窓から入ってきたのだろうか。春、四月。生きていれば7歳になるはずの、僕たちの子どもの誕生日がもうすぐやって来る。


**【桜三部作#2】桜流し、に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?