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ジェヴォーダンの獣

 1764年6月1日、その黒い大型の四足獣は、初めて人を襲った。現場はフランス中部ランゴーニュ、現在のロゼール県だ。だが襲われた女性は無事だった。牛の群れの中にいた事が幸いした。しかしこの後、3年間で約100人の女子供が喰い殺された。惨劇の始まりだった。
 同年6月30日、最初の犠牲者が出た。14歳の羊飼いの少女ジャンヌ・ブーレだ。この少女は、行方不明になり、内臓を喰い荒らされた状態で見つかった。彼女は生前、罪の告白をしていなかったため、秘跡なしで埋葬された。同年8月8日、2人目の犠牲者が出た。
 アンシャンレジューム下、この辺りはジェヴォーダン地方と言われたため、この謎の大型四足獣は、ジェヴォーダンの獣と言われた。(フランス語では単にla bête(獣)とも言う)
 現地は恐慌状態に陥り、最終的には時の国王ルイ15の耳に入り、賞金首までかけて、討伐隊が編成された。当時のイラスト付き説明文は以下だ。

 Figure du monstre qui désole le Gévaudan. Cette bête est de la taille d'un jeune taureau, elle attaque de préférence les femmes et les enfants, boit leur sang, leur coupe la tête et l'emporte. Il est promis 2700 lt (livres tournois) à qui tuerait cet animal.(注113)
 ジェヴォーダンを荒らす怪物の姿。 この獣は若い雄牛ほどの大きさで、女性や子供を好んで襲い、その血を飲み、頭部を切断して運び去る。この動物を殺した者には 2,700リーブルトルノワを約束する。(リーブルトルノワ=スーで、1リーブル=20スーで、135リーブル)

 スー(フランス)とシリング(ドイツ)は等しいので、ハーメルンの笛吹きで登場したまだら男が要求した鼠退治の金額の135倍か。ジェヴォーダンの獣の価値はそれほどあった。
 この獣が特に恐怖されたのは、人の頭部を破壊する事にあった。首を喰い千切って、頭部を運び去る事もそうだが、頭部を噛み砕かれて死んだ者や、顔の一部を喰い千切られた者が後を絶たなかった。標的は女子供で、特に少女が狙われた。成人男性の犠牲者は少ない。
 この獣に襲われて助かるケースは、牛の群れの中にいる事が多く、その事から、ジェヴォーダンの獣は、牛が苦手だと言われた。あと矛で戦った若い女性が、撃退に成功している。
 この黒くて大型の四足獣は、狼と言われたが、黒いライオンと言った者もいて、正体が分かっていない。概ね狼に似ていると言われたが、狼と似ても似つかないという目撃証言もある。背中に黒い縞模様があったらしい。絶滅した大型四足獣の生き残りとも言われた。
 1765年8月29日、ジェヴォーダンの獣は、銃で斃された。やったのは、オルレアン公爵の狩猟係ランシャールだ。狩猟中に偶然、牛飼いを襲っているところに出くわして、斃した。背中の黒い縞模様が、証言と一致したので、ジェヴォーダンの獣は退治されたとされた。
 だが同年9月2日、再び少女が襲われた。間違いだったのか?あるいは複数の個体がいたのか?よく分かっていない。だが騒動が収まっていない事だけは、確かだった。
 騒動が収まらない事に苛立ったルイ15世は、フランソワ・アントワーヌ少尉に命じて、討伐隊を編成し、ジェヴォーダンの獣の退治を指示した。この時、少尉が森の中で、ジェヴォーダンの獣を目撃して、黒いライオンと発言した。この事から、ジェヴォーダンの獣は、ネコ科の猛獣ではないかと推定された。だがその後、少尉は発言を撤回して、大きな狼と述べている。
 1765年9月21日、王立竜騎兵隊は、ジェヴォーダンの獣を斃した。死体はパリに送られて、大きな狼と判定された。フランソワ・アントワーヌは、ルイ15世から、報奨金を貰った。だが、また被害が報告され、それから30名の犠牲者が出た。騒動はまだ収まっていなかった。
 1767年6月19日、地元民ジャン・シャステルが、ソニュ・ドーヴェールでジェヴォーダンの獣を銃で斃した。これ以降、ジェヴォーダンの獣が出たという騒ぎが起きていないので、最終解決したと見なされている。ただこのジェヴォーダンの獣も、大きな狼と判定された。ただし、頭が大きく、赤、白、灰色の三色の毛並みを持つ奇妙な狼と言われた。黒い縞模様はない。
 そうなると、狩猟係ランシャールが倒した時点で、根本問題は解決していた可能性がある。それ以降は、大きな狼による被害で、ジェヴォーダンの獣ではないかもしれない。
 ジェヴォーダンの獣が、実在した事は間違いない。3年間で約100人の人間が命を落としている。当時は恐れられて、教会では、神が人間に遣わした天罰と考える向きさえあった。だがその正体となると、誰も掴めていない。死骸も残っていないので、分析ができない。
 そもそも、自然界で、一個体だけいる動物は、通常在り得ない。絶滅危惧種で、最後の一個体というケースくらいしかない。動物も親がいて、子がいて、群れで種族を維持する点では、何ら変わりない。だがジェヴォーダンの獣は、複数同時に確認された事がない。
 一体だけ発生した、狼か何かの突然変異なのだろうか?謎は深まるばかりである。この時代の動物ではないという意見は昔からあった。絶滅した大型四足獣の生き残り説だ。だがこの説も、どうやってこの時代まで、個体を維持して来たのか、説明ができていない。
 また被害範囲の広さも注目された。1,800平方メートルに及ぶと言う。ジェヴォーダン地方の境界線も越えている。この中に、他の狼の被害も含まれるかも知れない。だが概ね、ジェヴォーダンの獣の仕業と言われた。この事から、ジェヴォーダンの獣は、群れだったと言う人もいる。
 だがジェヴォーダンの獣は、単独と見るのが通常だ。手下はいたかも知れない。黒い縞がある特一等級の獣ジェヴォーダンと、カラフルな毛並みを持つ大きな四足獣たちだ。ランシャールが、ジェヴォーダンの獣を斃し、アントワーヌ少尉とシャステルが手下を斃したのか。
 伝えられている話を纏めると、三頭ほど、明らかに異様な四足獣がいた事になる。これらの獣は一体何者なのか?一体どこから来たのか?手がかりは残されていない。

 1765年9月21日、王立竜騎兵隊は、ジェヴォーダンの獣を追っていた。サン・ジュリアン・ デ・シャズという村の近くだ。山地であり、森があり、アリエ川が流れている。フランソワ・アントワーヌ少尉は、馬から降りて、大型四足獣の足跡を追っていた。標的は近い。
 少尉は、祖父の代から国王の火縄銃(Arquebuse)持ちだった。一種の役職だが、銃の腕前は問われるので、名誉職ではない。王立竜騎兵隊は、お飾りの兵隊ではない。実戦もこなす。今回は、王の名誉に係わるとの事で、化物退治に駆り出された。
 すでに一回、少尉は森の中で、ジェヴォーダンの獣とすれ違っている。その時見た印象では、黒いライオンという感じだった。少尉はアフリカにも行った事があり、ライオンを見た事がある。たてがみにおおわれており、そのなめらかな足取りから、ネコ科の猛獣を思わせた。
 これは去年の秋、ジャン・バティスト・デュアメル大尉が、地元の協力を得て、大規模な捜索と狩猟時に得られた目撃証言と一致している。ハイエナ・狼の類ではないというのが、この時の話だった。大尉と連隊は、最終的にジェヴォーダンの獣を捕らえる事はできなかった。
 「……少尉、ここを見て下さい」
 部下の一人が、茂みを指差した。動物のフンがある。真新しい。
 犠牲者の事は考えないようにした。怒りが込み上げる。
 「近いな。銃を用意しろ」
 アントワーヌは、部下たちにマスケットを準備させた。
 今は馬から降りている。徒歩だ。森の中のため、ちょっと不利だった。
 「散開しろ。ただし間は5メートル以上空けるな」
 竜騎兵は、馬にも乗らず、小銃だけ持って、山地の森を捜索した。
 「……猟犬でも連れてくるべきでしたかね」
 部下の一人がそう言った。少尉は答えなかった。
 地元の漁師に依頼する手はあったが、王の名誉に係わる。
 王立竜騎兵隊の独力で、獣は倒すべきだった。
 「……出たぞ!あそこだ!」
 不意に騒がしくなった。部下たちが発砲を始めた。
 アントワーヌも急行した。森の中で銃声が響き渡る。
 「La bête !」(獣 !)
 ジェヴォーダンの獣が、岩を背に隠れるように立っていた。
 やはり黒い毛に覆われている。たてがみがあり、大口を開けている。
 体長3メートルはある。体重は推定250kgか。とにかくでかい。
 獣は岩を盾にして、銃弾を防ぎ、逃げようとしている。
 「逃がすか!」
 少尉は横から接近して、銃弾を獣に当てた。
 獣は唸り声を挙げて、襲い掛かってきた。
 危機一髪、アントワーヌは獣を避けると、短剣で獣の尻を刺した。
 その後、部下たちが接近して、マスケットを何発もぶち込んだ。
 獣は死んだ。銃身から煙が上り、死体から血が流れた。
 「黒い縞模様はないか?」
 少尉は部下たちと共に、ジェヴォーダンの獣を見分した。
 だがすぐに、アントワーヌは立ち上がった。
 「……どうしました?」
 部下が不思議そうに見上げた。
 「静かにしろ」
 少尉は、獣を斃して、緊張が緩んでいる部下たちを、引き締めた。
 何か来る。そういう気配がした。なぜか霧が出ている。森が暗くなった。
 木立の間から、唸り声が聞こえた。黄色い双眸が光っている。
 それも一つではない。無数にある。いつの間にか包囲されていた。
 「ジェヴォーダンの獣……」
 それは全てジェヴォーダンの獣だった。
 黒くて背中に縞模様がある個体、黒くてたてがみがある個体、赤、白、灰色の毛並みを持つ個体。様々なジェヴォーダンの獣たちが、王立竜騎兵隊を包囲していた。
 「……少尉、これは……」
 堪え切れず、部下の一人がマスケットを構えた。
 「騒ぐな。撃つんじゃない」
 アントワーヌは、脂汗を流しながら、部下たちを制止した。
 数がどんどん増えている。「穴」のような揺らぎが見えたかと思ったら、中からジェヴォーダンの獣が現われて来る。何だ?これは?一体何が起きている。だが危険な事に間違いない。
 どれくらいの時間、獣の群れと対峙していたのだろうか?
 一頭、また一頭と姿を消し、ジェヴォーダンの獣たちは「穴」に帰って行った。
 いつの間にか、霧が晴れていた。獣の群れは消えていた。
 「ここで見た事を口外するんじゃない。忘れろ」
 少尉は部下たちにそう命じた。ふと、先程斃したジェヴォーダンの獣を見ると、それはただの大きな狼の姿に変わっていた。黒いライオンではない。アントワーヌは嘆息した。

注113
https://fr.wikipedia.org/wiki/Bête_du_Gévaudan#/media/Fichier:Figure_du_monstre_qui_désole_le_Gevaudan.jpg

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺018

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