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【米大統領列伝】第三回 トマス・ジェファーソン大統領(後編)

はじめに

 予告通り、トマス・ジェファーソン二期目と大統領職を辞した時の話になります。

前回は以下により

閣僚編成

 毎回恒例の閣僚編成は以下の通りです。

副大統領 ジョージ・クリントン(1805–1809)
国務長官 ジェームズ・マディソン(1805–1809)
財務長官 アルバート・ギャラティン(1805–1809)
陸軍長官 ヘンリー・ディアボーン(1805–1809)
司法長官 ジョン・ブレッキンリッジ(1805-1806)
     シーザー・オーガスタス・ロドニー(1807-1809)
郵政長官 ギデオン・グレンジャー(1805-1809)
海軍長官 ロバート・スミス(1805-1809)

内政政策

領有権主張の拡大

 前回も取り上げたルイス・クラーク探検隊により、カナダ南部にある現在のワシントン州がある地域の領有権主張を開始しました。これは後に実現します。

アロン・バーらの抵抗

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アロン・バーの画像

 アレクサンダー・ハミルトンに決闘を挑み、殺害したバーは嫌われ者になり、副大統領候補から外されました。バーはルイジアナ州知事と共にメキシコ又はスペイン領フロリダの獲得する為に共謀したとされてます。1806年にバーは軍隊(60人程)を乗せた輸送船をオハイオ川経由で運んでいましたが、ルイジアナ州知事はジェファーソンにバーの奇行を知らせた為、大きなことは起きずにバーを捕獲することに成功しました。1807年に反逆者として裁判で裁かれることになったバーに対し、ジェファーソンは議会で裁判の結果に影響を及ぼそうとした発言が散見されましたが、最高裁判事であり、政敵でもあったジョン・マーシャルの下した判決で無罪が言い渡されます。バーの弁護団はジェファーソンに対し、勾留状を出しましたが、ジェファーソンは黙殺しました。

注:勾留状とは、被告人を裁判所に出廷させるための召喚状で、国の法律で被告人の身柄を拘束する期間が異なる場合あり。

ジェファーソンが裁判所の出廷を無視したことで、大統領の権限として勾留状を無視しても問題は起きない悪い前例を作ることになりました。

軍事・外交

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ナポレオン戦争中のヨーロッパ

 欧州ではナポレオン戦争が続いており、フランス大好きジェファーソンですが、フランス本土での戦いには参加することはしなかった。但し、フランス寄りな態度を示していた為、英国の私掠船による交易船の略奪被害に会う機会が増えてました。加えて、他の欧州諸国は戦時物資調達に中立を宣言していた米国だったが、商人から強制的に持ち去るケースや自主的に協力していたケースなどがあった為、ジェファーソンは通商禁止法を施行しました。

注:通商禁止法は英国とフランスに対抗して、米国の貿易を禁止した法律

元々、ジェファーソンは戦争に向けての文章まで準備していましたが、議会が戦争を許可しなかった為、妥協案として通商禁止法が採択されました。通商禁止法により、米英関係は再び、険悪さが増すこととなり、1812年の米英戦争の遠因を作ることになってしまいました。

移民政策・奴隷政策

移民政策

 一期目から大きな変化は見られないです。

奴隷政策

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資材のように並べられた奴隷達が乗せられた船

 1807年に奴隷輸入を禁止しました。これにより、米国での奴隷問題は既存の奴隷とその奴隷の間で生まれた新たな奴隷の範囲に縮小しました。奴隷輸入を禁止するところまでは良かったのですが、既存の奴隷の間で生まれた子供で奴隷労働力の補充が可能な状態と化していた為、期待していた効力は持ち合わせていなかったと言えると思います。あと、前回でも触れましたが、ジェファーソンはそれなりの数の奴隷を保有していた為、奴隷政策で奴隷を解放する気が本当にあったのかは不明瞭なままです。

教育

 一期目から大きな変化は見られないです。

経済

 通商禁止法により、交易での利益は吹っ飛びました。元々、私掠船の被害もあった頃よりも更に悪化しました。この際、購入国側が英国とフランスである為、貿易で一番の損害が出たのは生産国側の米国でした。

注:次回から取り上げる四代目米大統領のジェームズ・マディソンは国務長官時代に通商禁止法を提案した張本人です。

米国の貿易は8割減で大打撃を受ける状態で欧州から輸入される工業製品も輸入が出来ませんでした。ジェファーソンは米国が農業国を目指すべき考えを持っていましたが、工業製品を輸入できなくなったら米国で工業製品を作る動きが現れ、ジェファーソンの意向とは真反対の状態に陥りました。尚、大統領辞任前に通商禁止法を撤回しました。

大統領辞任後のトマス・ジェファーソン

 ジェファーソンは大統領辞任後、モンティチェロへ戻り、「鎖から解き離れた罪人のような解放感を感じた」とメモの中で書いてました。ジェファーソンは生涯通して、大学を作りたいという願望を持ち合わせていたが、大統領辞任後に行動に移り、1819年にバージニア大学を創立させました。バージニア大学は生徒にコース選択をさせる点で画期的な仕組みで運営がされました。それまで大学というのは教会の近くに建てていたのに対し、バージニア大学は図書館を中心にした建てられてました。更に、生徒や教員を自宅に招いて、話せる機会を作るなどして、非常に有意義な勉学の場を作ることに成功しました。

注:アダムズ政権時にジェファーソンの命令で、ウィリアム・アンド・メアリー大学で米国の大学で初の法学教授を指名するなどしたが、改革の速度が遅いことに業を煮やし、自ら大学を作りたいと考えるようになりました。

 他に、現役時代に犬猿の仲になったジョン・アダムズとの手紙のやり取りをする中で仲直りしました。興味深いことに1826年の独立50周年記念日にジョン・アダムズとトマス・ジェファーソンは同日に亡くなりました。両者は別々の場所で息を引き取りましたが、偶然もあるものですね。

死後の評価

 死後の評価として、長らくは紙幣の顔として愛用されたり、過去に最も偉大だった大統領群でワシントン、リンカーンに次ぐ人気を有してました。しかし、1960年代を契機に状況は少しずつ変化し、米国での左派による歴史修正主運動の一環で黒人奴隷を生涯通して保有していたジェファーソンは目の敵にされる事態に急変します。近年、ジェファーソン像を破壊する左派過激派が米国各地で出没するようになりました。

ジェファーソン像を壊す左派の集団

あとがき

 政治家として、裏で政争に勝つ為には情報戦で偽情報を流す狡猾さを持ち、表でカリスマ演説を行う姿は政治家の鑑のような存在だったと言えると思います。ジェファーソンの持っていた先見性の高さは米国の発展をより一層高めることに成功し、学識のある人物が権力を握る時の良い面もある一方、フランスに肩入れして戦争誘発したり、米英関係を悪化させる悪癖も持ち合わせていた人物でもあります。内政では高い評価できる反面、ルイジアナ買収を除いた外交では高く評価できません。ただし、大統領辞任後に示されたように教育者としての才覚を発揮するなどして、知的探求する大学の仕組みに新たな風を吹かせるなどした点で大統領辞任後の功績は大きかったと言わざるを得ません。ただ、奴隷輸入に反対しながらも、自身は最後まで奴隷を保有し続けたダブル・スタンダードは後世での評価を落とす要因になっているのもまた事実です。次回は第四第米大統領ジェームズ・マディソンの大統領になるまでの過程を追っていきます。

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