『ネガティブ・ケイパビリティ』ノート
帚木蓬生(ははきぎほうせい)著
毎日新聞出版刊
書名の「ネガティブ・ケイパビリティ(negative capability)」とは何か。直訳すれば〝負の能力〟だが、意訳すれば副題にある〝答えの出ない事態に耐える力〟である。著者はそれを言い換えて、〝性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力〟としている。
人間は、何事も知りたい、分かりたいという生物としての性向を持っている。その特性が科学を発展させてきたし、確かにそれで解明できた面もある。しかし何でも分かった方がよいのか。
例えば、原子核の中に内包している途方もないエネルギーを見つけて、物質とエネルギーの関係を解明したことが、原子爆弾の開発に直結した。いまやそれは人類の頭上にぶら下がった〝ダモクレスの剣〟となっているのだ。
著者は人間の特性として、「目の前に、わけの分からないもの、不可思議なもの、嫌なものが放置されていると、脳は落ちつかず、及び腰になり」、そうした困惑状態を回避しようとして、「とりあえず意味づけをし、なんとか分かろう」とする。だから世の中でノウハウもの、ハウツーものが歓迎されるのは、そのためで、「分かる」ための窮極の形がマニュアル化だという。
人間は安直に〈positive capability〉を求めるが、この能力だけでは表層の「問題」のみをとらえ、深層にある本当の問題は浮上せず取り逃がしてしまうという。私たちの人生や社会は、どうにも変えられない事柄に満ち満ちているのだ。
ところで著者の帚木氏は精神科医であり作家である。米国の精神医学雑誌に掲載されていた『共感に向けて、不思議さの活用』(ウィルフレッド・R・ビオン 英国の精神科医・精神分析医)というタイトルの論文の中で著者はこの言葉を見つけた。その論文には、精神分析に限らず、人と人との出会いによって悩みを軽減していく精神療法の場において、このネガティブ・ケイパビリティという概念は必須の要素だとビオンは書いている。
もともとこのネガティブ・ケイパビリティという言葉は、英国生まれの詩人のジョン・キーツが初めて提示した概念だ。キーツが兄弟宛の手紙の中で、シェイクスピアの才能や登場人物がこの能力を持っていたということで、それをネガティブ・ケイパビリティと名付けている。それもこの言葉が出てくるのはわずか1回である。そしてそれは詩人こそそれを身につけるべきであると書いているのである。
ビオンがネガティブ・ケイパビリティという概念をキーツの手紙の中に見つけ、精神医学の分野に応用したのだが、その後この概念は文学・芸術の領域を超えて、精神医学の分野にも拡大され、人が人を治療する場では無視できない貴重な概念となったのである。
精神分析学には膨大な知見と理論の蓄積があり、分析家たちはその学習と理論の応用にのみかまけて、目の前の患者との生身の対話をおろそかにしがちである。患者の言葉で自分を豊かにするのではなく、精神分析学の知識で患者を診察して、理論をあてはめて患者を理解しようとするのは本末転倒であると著者は指摘する。
なまじっか知識を持ち、ある定理を頭にしまい込んで物事を見ても、見えるのはその範囲内のことにすぎず、広がらないという。患者が発する言葉や振舞いを理論的にはこれこれにあてはまると簡単に片づけてしまうというのである。
この本は全部で10章からなるが、著者自身の経験から8人の身の上相談の例を提示し、聞く側のネガティブ・ケイパビリティの重要性を説く。さらにはプラセボ効果、創造行為、シェイクスピアの『マクベス』や『リア王』、紫式部の『源氏物語』、教育、寛容、政治家などとネガティブ・ケイパビリティとの関係について言及しており、全て現代人の我々に多くの示唆を与えてくれる。
ちなみに筆者が今年の1月20日にnoteに投稿した『ルルドへの旅』に出てくるルルドの泉のことにも著者は言及している。
アレクシー・カレル(文中ではレラック)は悩みながらも、この娘の病気が、それも末期の結核性腹膜炎がいわば瞬時に器質的に改善し、治癒したことの説明はできなくても、この娘の今の幸せを見ているといろいろと説明を探すなどたいした問題ではないと彼には思えるようになる。
このことはまさにカレルがネガティブ・ケイパビリティを体現したと言えるのではないか。
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