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『クオ・ワディス』ノート

ヘンリク・シェンキェーヴィチ著
木村彰一訳
岩波文庫(上・中・下)

 ポーランドのノーベル文学賞作家であるシェンキェーヴィチが1896年に発表した作品である。

 私がこの本を職場の同僚から薦められたのは2005年のことだった。文庫本で上・中・下巻合計で1000ページを超える大作だが、読み始めると一気に物語に惹き込まれて一週間ほどで読み終わった記憶がある。
 今回、noteに書こうと決め、連休中どこにも行けないのを幸いに再読したが、やはりその史実に基づいた構想力や複眼的視点にあらためて驚嘆しつつ読んだ。

 物語の舞台は、紀元1世紀当時、側近や妻を殺した暴君として有名な皇帝ネロが治めていた古代ローマ帝国で、キリスト教徒が増え始めていた時代である。
 ローマ帝国の信仰はローマ神話でわかるように多神教。一方、キリスト教徒が信じるのは唯一の神。信仰のあり方がローマ帝国とはそもそも相容れない。

 そんな中、皇帝ネロの配下の貴族で軍団将校のマルクス・ウィニキウスがキリスト教徒であるリギアという娘に恋をしてしまう。戦いに身を投じてきたウィニキウスは、リギアの信仰を理解することができない。しかし、リギアと触れあうなかで、次第にキリスト教の信仰に親近感を持ち、使徒ペテロの手でリギアと婚約をする。そしてリギアを愛する故に、キリスト教と真摯に向き合い始めたウィニキウスは、やがて自分を寵愛してくれる皇帝か神かのジレンマに陥る。

 ローマで起こった大火災をきっかけにして、ネロはキリスト教徒をその火災の犯人だとし、キリスト教徒の弾圧を始め、次々と捕えて円形競技場に集めて、十字架の上で火刑に処したり、飢えた犬に食い殺させるなどの残虐な殺し方をするようになった。
 それらの血なまぐさい催事をローマの民衆は支持し、ネロも民衆の支持を受ける。しかしさしものネロもその暴虐な振る舞いにより、次第に民衆の支持を失っていく。

 ローマ帝国におけるキリスト教徒への迫害は日を追うごとに激しくなり、虐殺を恐れた者たちが国外へ脱出していた。ペテロは最後までローマにとどまるつもりであったが、周囲の信徒たちの強い懇願で、渋々ながらローマを離れることに同意した。そしてアッピア街道を歩いていると、目の前に光とともにイエスが出現する。その姿を見て、ペテロはイエスにこう問いかける。
「クオ・ワディス・ドミネ?」(Quo Vadis Domine? 主よ、いずこに行かれるのですか?)
 それにイエスはこう答える。
「あなたがわたしの民を見捨てるなら、わたしはローマに行ってもう一度十字架にかかろう」
 ペテロはイエスのこの言葉を聞いて、殉教を覚悟してローマに戻り、威厳を備えた殉教者として民衆に影響を与え、喜びのうちに磔刑に処せられる。

 この作品の発表当時の、ロシアなど列強によって虐げられていたポーランドの厳しい国内状況が、迫害を受けて苦しむキリスト教徒と重ね合わされていると言われている。
 題名は、この国はどこに向かって行くのですか、という神への問いかけのようにも思える。

 この作品のタイトルとなっている〝クオ・ワディス〟とはラテン語で、『ヨハネによる福音書』13章36節にある言葉である。
 この言葉は、ペテロのその後の運命を決めたばかりでなく、その後のキリスト教の苦難と栄光の歴史を象徴するものとして用いられている。

 ネロがローマの大火の際にキリスト教徒を迫害したことを伝えるのは、帝政期ローマの政治家で歴史家でもあったタキトゥスの『年代記』がほぼ唯一の史料と言われている。なおこの『年代記』ではイエス・キリストが〝クリストゥス〟という名で初めて登場する。

 以下、タキトゥス『年代記(下)』(岩波文庫 P269-270)から引用する。

〈民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。その当座は、この有害きわまりない迷信も、一時鎮まっていたのだが、最近になってふたたび、この過悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされるこの都においてすら、猖獗(しょうけつ)をきわめていたのである。そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。彼らは殺されるとき、なぶりものにされた。すなわち、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。(あるいは十字架に縛り付けられ、あるいは燃えやすく仕組まれ、)そして日が落ちてから夜の火代わりに燃やされたのである。ネロはこの見世物のため、カエサル家の庭園を提供し、そのうえ、戦車競技まで催して、その間中、戦車馭者のよそおいで民衆のあいだを歩きまわったり、自分でも戦車を走らせたりした。そこで人々は、不憫の念を抱きだした。なるほど彼らは罪人であり、どんなにむごたらしい懲罰にも値する。しかし彼らが犠牲になったのは、国家の福祉のためではなく、ネロ一個人の残忍性を満足させるためであったように思われたからである。〉

 この資料を基に、シェンキェーヴィチはローマ帝国の歴史と宗教に基づく風俗、哲学、時代精神などを学び、綿密に考証して、ウィニキウスとリギアの恋と信仰を縦糸として、ネロとローマの栄光と没落を横糸にして絡ませ、ペテロの弘教と殉教をクライマックスとして、興味の尽きないこの壮大な歴史小説を書き上げた。

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