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『死は存在しない』ノート

田坂広志著
光文社新書

 著者は科学者であり、著名な研究所の研究員や大学教授を歴任し、その後、シンクタンク・ソフィアバンクを設立。2008年には世界経済フォーラムいわゆるダボス会議のグローバル・アジェンダ・カウンシルのメンバーに就任。国内では東日本大震災を機に日本政府の内閣官房参与に就任するなど、広い分野で活躍してきた人である。名前は知っていたが、分野が違うこの本のタイトルに興味を持って、購入し年末から年始にかけて読んだ。

 副題には「最先端量子科学が示す新たな仮説」とある。私は科学については全くのド素人ながら、量子と人間の心の関係については、『心は量子で語れるか』(ロジャー・ペンローズ著/日本語訳1998年講談社刊)を発刊当時熟読したことがあったので、量子と生命を結びつける試みが出るべくして出たという印象を持った。ちなみにペンローズの説は一言でいえば、「意識は無数の量子によって生じる」というものである。

「死後我々はどうなるのか」は、人間にとって〝永遠の謎〟である。人間は死んだあとどうなるかを解明したいと思うのは、私たちの〝死〟への不安や怖れを少しでも緩和するためなのであろう。

 著者は、まず自身の日常の体験から、「不思議な直感」、「以心伝心」、「予知・予感」などの不思議な出来事を紹介しつつ、これらは科学的に証明できるはずだと確信し、現代科学の最先端、量子物理学の世界で論じられている「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」を取り上げる。
 ではこの「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とは何か。それは、「この宇宙に普遍的に存在する『量子真空』の中に『ゼロ・ポイント・フィールド』と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙の全ての出来事の全ての情報が波動情報としてホログラム原理で『記録』されている」という仮説である。
そして我々には、常にコミュニケーションをとり、ときには対話をする二つの自己――自我意識を強く持つ「現実自己」(現実世界)と無意識からなる「深層自己」――があり「深層自己」はゼロ・ポイント・フィールド(深層世界)内に収められているという。

 ここにいう現実自己(≑自我意識)は、この現実世界での我々の生物としての「生存本能」に根ざしているものである。死に対する恐怖や自身の生存が脅かされることへの不安から自我(エゴ)が生まれ、それが闘争心や競争心、自他の分離や比較、自尊心や承認欲求などの意識が生みだされ、それが敗北や挫折、孤独や劣等感などを通じて我々の心に「苦しみ」を生みだしているという。
 そして肉体の死を迎えたときには、自我は死の恐怖や生存の不安から解放され、ゼロ・ポイント・フィールドに移ると自我の存在意義は薄れ、超自我意識から人類意識へ拡大していくという。
 このイメージは、仏典が説く「死を迎えると我々の命は生死(生命)の大海の一滴となる」(趣意)という一文を思い起こさせる。
 また著者の言うように、仏教の「唯識思想」における「阿頼耶識」と呼ばれる意識の次元は、確かにゼロ・ポイント・フィールドと極めてよく似た考えである。

 さらに著者はユングの「集合的無意識」や、トランスパーソナル心理学における「個を超えた無意識の世界」にも触れ、「人類意識」から「すべての生命の意識」や「地球意識」、さらには「ガイア理論」(地球そのものが巨大な生命体という説)、その先の「宇宙意識」まで展開する。

 また著者は臨死体験者が語るある種の共通イメージをゼロ・ポイント・フィールドに求めている。しかし臨死体験者が語る〝死後の世界〟の話をいくら取材したとしても、それはあくまで〝臨死の世界〟であって〝死の体験〟そのものではない。〝死〟は肉体が二度と生き返ることのない不可逆な状態をいうのであって、それは「脳死」でも同様である。故に、ゼロ・ポイント・フィールドが存在することの証明として臨死体験の話を根拠の一つとするのには無理があると考える。

 私たち凡人の関心は、〝私〟という自我の死であって、肉体が滅びることによって、自我がどうなるのかという点にある。ゼロ・ポイント・フィールドに移り、それが超自我さらには無我となってしまうということは、思惟の及ばぬ哲学的あるいは宗教的領域の問題であり、タイトルの『死は存在しない』というのはいささか疑問なしとしない。

 いずれにしろ、古今東西の宗教者や哲学者が解き明かそうとしてきた〝死〟の意味や、苦しみからの解放の試みを、量子物理学の領域から解明しようという著者の意欲的な試みには興味深いものがある。次の著作を期待したい。

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