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『森の文学館』ノート


和田博文編
ちくま文庫刊
 
 前回の『星の文学館』に続き、複数の作家の〈森〉をテーマにした作品を集めたアンソロジー『森の文学館』を取り上げる。
 
 編者が集めた作者は、8人の芥川賞作家をはじめ、直木賞作家、脚本家、童話作家、文学者、文化人類学者、哲学者、映画監督、詩人、歌人、評論家と多岐にわたる。取り上げる作品を探すのも大変だろうなと編者のご苦労に思いを馳せる。
 
 森の深い〝迷路性〟(このような言葉があるかどうかわからないが)を取り上げた「深い迷路の奥で」のほか、「森の音に耳を澄ます」「森で迎える死と祈り」「森林限界とアルピニズム」などのほか、外国の森やアルプスを取り上げた章からなる。
 
 池田香代子の『赤ずきん』――まさにこれは現代版に焼き直した童話である。
もともと童話の『赤ずきん』の原型はフランスの昔話だったようで、その民間伝承の話を詩の形にしたり教訓めいた話にしたり、当時の風俗を取り入れて編集し、童話集を出版したのがフランスの詩人であるシャルル・ペローだ。
 それから100年以上たって、グリム兄弟が赤ずきんを再録した物語が有名なグリム童話の赤ずきんだ。

 この池田香代子版『赤ずきん』の主人公と狼とのやりとり――。
 
 ある日のこと、赤ずきんがお母さんのお使いで、病気のおばあさんの家にケーキとワインを届けることになる。ここまでは子ども向けの童話と同じだ。
 森にさしかかると、例の狼が出てきて、赤ずきんに朝の挨拶をする。すると赤ずきんは、挨拶を返しながら、「朝っぱらからお出かけ? どこへ行くの?」と聞き返す。予期せぬ赤ずきんの質問に、狼はどぎまぎしながらつい正直にこたえようとするのを止め、逆に聞くと、おばあさんの家に行くと赤ずきんは答える。次に狼は何を持っているのかを尋ねると、赤ずきんはケーキとワインと答える。赤ずきんがあまりに正直に答えるので、狼は警戒されていないと思い、おばあさんの家の在りかを聞き出そうとする。
 すると、赤ずきんは、
「狼さん、大きな耳をしているのね!」
「そ、そりゃあ、きみ、君の声がしっかり聞こえるようにだよ」
 狼は、このやり取りはおばあさんの家のベッドでの会話ではなかったかと思っていると、
「狼さん、大きなおめめしているのね!」
「き、きみがしっかり見えるようにさ、き、決まってるじゃないか」
「狼さん、大きなおててしてるのね!」
狼がどぎまぎしていると、赤ずきんは重ねて、
「あたしをしっかりつかまえられるようにじゃないの?」
「ま、まあ、そういう言い方もできなくはないと……」
うろたえる狼をきにもしないようすで、狼に、
「大きなお口してるのね!」
「その口であたしに……」
 
 狼は、最後まで聞く勇気もなく、一目散に森の奥に逃げていったのだ。
(狼はこのあと狩人のところにせっぱつまった形相でやってきて、自分を捕まえてくれと頼み込んだそうだ。狩人の話では、狼はもう生きていく自信がなくなったと鬱状態だったという――)
 
 おばあさんの家についた赤ずきんが狼とのやりとりの様子を報告していると、おばあさんはちょっとやりすぎたんじゃないか、そこまでは教えてはいないというと、赤ずきんは、「だって、あんまりおばあさんのいったとおりなんだもの。オヤジなんて、単純でばっかみたい――(これ以上はあえて書きません)」
 ――こわいこわい現代の赤ずきんの童話でした。
 
 詩人で評論家でもある松永伍一は『恐山の女たち』という題で、冒頭に恐山のまずその風景がくせものだと書き、「うす気味わるさが有難さにそのままつながるのなら、ここはまさしくその栄光に背くものではない。あまりに造形的にうまくいきすぎてかえって空々しくなるくらい、来世のイメージが人間の意思で造顕されているのだ。結果のみを観れば多少芝居がかってこっけいだが、そこまでもっていった永年の信仰の蓄積を私は嘲笑うことができない」というのだ。
 そしてその信仰については、その混沌とした秩序の中で、神や仏や死霊を渾然と捉えていく方法を生活の内側で掴み、宗派にこだわらぬ寛容さを残し、信仰の形態論で片付けられないくらい深く人間の情念に結びついており、古代信仰のある種のおおらかさと幼稚性をはらんでいるとみる。
 
 盲目のイタコたちは民俗信仰の中に機能的に生きるシャーマン(霊媒)なのであり、その口寄せの特長は3つあり、一つは、東北の貧困のなかでの生活実感に即したリアリズムの要素を持っており、二つ目は、教訓の要素を濃厚に持っている。死者に「おらは極楽浄土におれば……」と言われるとそれで生者は安堵し、通俗この上もない教訓が生者に沁み込むのである。三つ目は、生霊と死霊との一体性が説かれている。そのことによって、生者が死者へのはたし得なかった〈愛〉をはたし得ることを教える。
 
 生者が充たされ救われることが、ここでは望まれるのである。そして恐山をはじめとする本州北の果ての地蔵信仰には、古くから飢饉などによってわが子を殺さなければならなかった罪悪感が含まれており、殺した嬰児の安否と、殺した自分が救われるのかという事を問う唯一の機会ないし形式だったと述べている。
 
 続いて寺山修司が、『口寄せ』という題でやはり恐山の巫女(イタコ)から、じぶんの少年時代に、口寄せをしてもらって、死んだ父と話した体験を書いている。
 
 宮崎駿との対談『森の持つ根源的な力は人間の心の中にも生きている』では、アニメ『もののけ姫』の制作動機を巡っての話が弾んでいる。


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