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『乱読のセレンディピティ』ノート


外山滋比古
扶桑社刊
 
 外山滋比古の代表的な著作に『思考の整理学』がある。この本の刊行は1983(昭和58)年で、もう発刊から40年近く経つが未だに読まれている大ベストセラーである。
 私も刊行の年に買って読んだが、すでに再版を重ねており、私も再読三読した本だ。学術エッセイの形を取りながら、思考学(というのがあればだが)の入門書とも言うべき本だ。
 
 この『乱読のセレンディピティ』は2014(平成26)年に発刊された。帯には〝「思考の整理学」読書版〟とある。
 書名にある〝セレンディピティ〟という聞き慣れない英単語に惹かれて手に取った。「思いがけないことを発見する力」、言い換えれば「偶然と賢明さによって、探していたものと異なるものを発見すること」であり、セレンディピティの代表例として、アイザック・ニュートンの「万有引力の法則」やアレクサンダー・フレミングの「ペニシリンの発見」が有名だ。手に取ってから外山滋比古の本ということに気がついた。
 
 私がnoteに投稿している書名を見ていただくとわかるが、私にはジャンルを選ばず乱読の気味がある。私は己の本の読み方がまちがっているのではないかなどとは考えたこともないが、この本はそれにお墨付きを与えてくれ、少し安心したことは確かだ。それも外山滋比古先生に。
 
 最初に、外山先生は〝貰ったクスリは効かない〟というように、「クスリは買うべきものであり、本も同じで金を出して買うのが本すじである」とし、「もらった本はおもしろくないものだ。感心するのは買った本である」と書いている。
 確かに買った本は、面白いかなと思って買うのだろうし、他人からもらった本は自分の関心の外である可能性が高いので、おもしろくないというのはある意味当たり前だ。
 いきなり、外山滋比古先生に逆らってどうするのだと言われそうだが、自分の体験から申し上げると、面白いと思って買った本でも時々はずれはあるし、友人から「面白いよ」と紹介されたり、いただいたりする本でも本当に面白いのがあることは間違いない。
 これまでもらった本で〝ハズレ〟だと思った本は一冊もないのは幸せなのかもしれない。このnoteにもいただいた本を何冊も取り上げている。
 
 ただ読みたい本は図書館や友人から借りるのではなく、いただいた本以外は必ず購入している。なぜなら私は線を引き、ページを折り曲げ、書き込みをするのが癖というか私の読書の流儀だからだ。
 外山先生の、もっともおもしろい読書法は乱読である、ということには同意する。また本を読んだら、忘れるにまかせる、ということにも賛成だ。何かのテーマで講演をすることになったり、論文を書く場合には、この引用文はどの本のどこそこにあるということは調べるし、メモをするがそれ以外は忘れるにまかせている。
 
 かくいう私は、若い頃は大事な一節と思った文章や言葉はカードに書き写していた。その京大式カード(B6版)が何百枚もある。いまそれらのカードはすべてパソコンの文書型データベースに移植して、必要なときは検索している。そうすると、とっくに忘れていた内容に出くわすこともあり、それなりに役に立つ。
 
 また最近は、『モレスキンのある素敵な毎日』でも触れたが、モレスキンノートに書くこともある。それも書き抜くことをかなり絞っているし、素晴らしい文章だと思ったことや思考のヒントになるようなものに厳選している。
 
 第13章〔乱読の活力〕には、「年をとってからの乱読には、若いときにないよさがある。気が若返るのだ。年を忘れる。自ずと元気もでる」という一節がある。これはそうかもしれない。気が若返るというより、自分の読解力は保てているし、本を読む意欲も衰えていないなと確認できる。
 
 第14章の〔忘却の美学〕には、「よく忘れるということは、頭の働きを支える大切な作用である」とある。私の場合は、昔は京大式カード、いまはパソコンの文書型データベースを〝外なる記憶装置〟として使っており、いったんそれらに記録すると内容はほとんど忘れてしまう。しかし、一度メモをしておくと、人といろんなことを話しているときにその時の言葉や一節がふと浮かんでくることがある。
 
 この本は、その書名とはいささか違って、読書と思考、話すことの効用と耳学問の大事さ、読者論、散歩の効用から文学論、文字論まで幅広く取り上げられており、開けばセレンディピティを発見することができる本だ。
 

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