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「グレート・インディアン・キッチン」を観て※注:ネタバレあります

騙されました。
ポスターに完全に騙されました。
この記事のヘッダーの画像、これがこの映画の日本版のポスターです。
キッチンでラブラブの新婚さん、嫁ぎ先に根強く残る古き慣習に縛られ思い悩んだけれど、美味しいインドなごはんを通し凝り固まった旧家の価値観がアップデートされて、二人の関係を変えていく、みたいな。

すみません。
そんな脳内お花畑な想像してしまって本当にすみません・・・!
そんなファンタジーなハッピーエンドは入る隙のない容赦のなさでした。

「グレート・インディアン・キッチン」
ケーララ州北部のカリカットの町で、高位カーストの男女がお見合いで結婚する。夫は由緒ある家柄の出で、伝統的な邸宅に暮らしている。中東育ちでモダンな生活様式に馴染んだ妻は、夫とその両親とが同居する婚家に入るが、台所と寝室で男たちに奉仕するだけの生活に疑問を持ち始める。教育を受けた若い女性が、家父長制とミソジニー(女性嫌悪)に直面して味わうフラストレーションをドキュメンタリー的タッチで描く。
(filmarksより)

前情報はできるだけ入れない状態で観に行きたいので予告編は見ずレビューもあらすじもほぼ読まない状態で観賞したのですが、いやはや、ポスターから勝手に想像していたものと全然違いました。
ホラーでした。とてもリアルな、ホラー。

数多の人が暮らすインド、宗教や歴史が複雑に絡まるインド社会については明るくないためその解説は他の方に任せるとして、女として日本に生まれ日本に育った私の視点での感想をまとめさせて頂きます。


物語は、会ったこともなかった二人のお見合いから始まり、華やかな結婚式のシーンへ。
「インドの結婚式ってこんな感じなんだ~、華やか~」なんて呑気に観てると、じわじわとやってくる胸糞な展開。(胸糞案件の数々が気になったかたは映画サイトのレビューを読まれてみてください。色んな案件が記されております。)
地方の名家とおぼしき婚家で夫の家族と暮らすようになり、はじめのうちはお客様のような扱いを受ける主人公。義母と共に毎日毎日家族のために台所に立ち、複雑で手の込んだ食事を一日三回作っては後片付けをするシーンがひたすらに繰り返されていきます。
物語の序盤で義母が自分の娘の出産のために家を空けることになり、家事の負担はすべて主人公へ。

日々の生活で澱のようにたまっていく違和感や苦しさが、料理を作る・食べさせる・食器をさげ汚れたテーブルを掃除する・食器を洗う・台所をきれいな状態に戻す・生ゴミを外に捨てにいく・家の掃除をする等々途切れることのない家事の様子を現実の生活と同じように繰り返し繰り返し丹念に描くことにより表現され、観ているこちらも主人公と同じようにフラストレーションが徐々に徐々に溜まっていき。主人公はその苦しさを吐き出すべく友人や母親に電話で愚痴るのですが、「嫁ぐとはそんなものだ」と中々抱えているもやもやを理解してもらえないのです。

インド全土の女性がこんな環境にいるのではなく、主人公の友人の夫は週に何度も料理を作るようだし、友人の方もなんの気兼ねなく自分の意見を相手に伝えられていたので、対等な関係でいることを選択しているカップルもちゃんとインドには存在していますよ、ということも伝わってきました。

私がぎくりとしたのは、娘から相談を受けた母親の「あんたも子供の頃は出来立ての朝ごはんを食べていたでしょ。私はいつも昨日の残り物を食べていたのよ」という返答。妻や母になるのということはそういうものなのだと思わせるような返答に、主人公も自分が嫁ぐまでは女性達がおかれている状況に強い疑問を持ったことはなかったのでは?と勝手に推測しました。
というもの、私はこの母親の返答で、母親というもは食事をつくって掃除をして洗濯をするそういう生き物なのだと無自覚に思い込んでことに自分がいい年になり結婚してから気がついたことを思い出したんです。

母は看護師という時間も不規則で気力体力共に大変な仕事をしながら家事もメインになってこなしていたのですが、当時の私はその状況を当たり前に受け入れすぎていて、それがどんなにすごいことなのか考えようともしませんでした。
子供の頃は見えていなかったけれど、家事は母親がするもの、というのはなんて残酷で浅はかな思い込みだったんだろうと大人になった今感じるのです。そうじゃない家庭もあるだろうし、家族内で家事を分担する家庭も増えても来てるのでしょうが、それでも2022現在、家事の負担が女性側に偏ってしまっていて男性には見えていないものがたくさんあるのがまだまだ多いのではないかと。

さて、この家の男性達、主人公に接する際に声を荒げたりすることはなく、紳士的に"注意"をするんです。"洗濯機で洗うと服が傷みやすいから私のは手洗いしてくれ"や"焼きたてじゃないと食べられないよ"みたいな注意を。
一ミリの疑いもなく、"いいかい?それが当たり前のことなんだよ?"という口調で。

あるレビューで、「日本でこういう作品を作ろうとすると、怒鳴ったり殴ったりの暴力シーンがあると思う」と書かれていたのですが、私もそれに激しく同意でした。何故ならば、そういう表現を使った方が主人公が理不尽にさらされているのが分かりやすいし、ドラマを作っていきやすいから。言語化しづらいモヤモヤとしたものを観察し、言葉やシーンにして丁寧にそれを重ねて見せていくって難しいことだと思うのです。
スクリーンを観ながら、優しい口調とは裏腹にそんな空気が充満しているからこそ主人公がいつ暴力をふるわれるのかハラハラしていたのですが、最後まで家人によるそういった表現はなく。
むしろ、直接的な分かりやすい暴力(大声で怒鳴る、殴る)の描写ではなく、可視化しづらいモラルハラスメントに浸されていくことで主人公が自分の抱えるモヤモヤとした気持ちをどこにも発散できずに飲み込むしかなく、それによって追い詰められていくさまがとてもリアルで。だからこそ身近な人に相談したとしても、それが慣習なのだし嫁ぐとはそういうものよ、とその苦しさに共感してもらえらない苦しさが更に生まれていくのだと。

夜のお勤めのシーンも何度かでてくるのですが(お勤め、って言い方が最早苦行でしかないことを物語ってますよね・・・)、夫の、前戯もなくいきなりの挿入で苦痛しかない性生活に耐え兼ね、ある夜、意を決して「怒らないで聞いて。いきなり挿入では痛いから、もう少し前戯をしてほしい」と控えめに伝えたのに、夫はプライドが傷つけられたのか「前戯なんて言葉をしってるなんて(はしたない、汚らわしい)」と隣でネチネチプンスカしだし…

あーーーーーー!!!!!

思い出しながら思わず叫びたくなってしまうくらいリアルな胸糞描写でした。
似たようなことってインドのこの夫婦だけでなく日本でもそこらじゅうに転がってますよね。さすがに現代日本では「前戯とか知ってるって女としてあり得なくない!!?」ということはない思うのですが(というより、ないと思いたい・・・)「イカない、濡れない、ましてや痛いなんて、君が不感症なんじゃない?」というディスエピソードは山のように転がっているかと。
(ちなみに私は濡れてないのに挿入しようとした夫/その当時は恋人関係に「まだ濡れてないから」と伝えると「その(濡れてなくて膣内が)きしんでるのがいい」と返してきたのが最高に胸糞でした。しかも、上に乗って、と言われたんだった・・・そんな状態で乗れるかクソ!!一度貴方様のお尻になんの潤滑剤もなしに異物を挿入して差し上げましょうか??)

・・・すみません、思わず私の個人的な恨み節になってしまいましたが、ミクロはマクロ、当時、大して男性経験も人生経験もなかった私は男女関係ってそんなものなのか、私がダメなんだと半ばあきらめていたのですが、セックスで上手くコミュニケーションが取れず痛くて嫌な思いをしてるのは私だけが抱える問題ではなく、諸々の問題が絡み合った現代社会の病み症状のひとつなのだと知ってどこか救われた思いがしました。そもそも、男性は一般的に女性に比べ共感能力が低いと言われてますし、それに加え異物が自分の穴に入ってくるという経験はなかなかないでしょうから、その痛みって想像しづらいでしょうしね。(共感も想像も苦手なのならば、こちらが痛くないかを気にしながら丁寧に優しく相手に臨んでいくのがセックス時の基本スタンスであると、アダルト動画で見てくれのセックスを覚えてしまう前にインストールしてくださればありがたいのだけれど。世代できっかりざっくり分けられる話でもありませんし、私のそう多くない経験の中で話を進めているのでイッツアスモールワールドな見解で恐縮ですが、比較的私達世代以上は刷り込まれてきたものが男性本位のものが多くそれを変えていくのはとても時間がかかることなので・・・これからの世代、きっと優しさが基本スタンスのそんな人が増えていくと信じます)

ちなみに海外版ビジュアルはこんなデザインみたいです。牢獄感すごい

牢獄のような際限なき家事労働の姿と共にもう一つ描かれていたのは、女性が月経になった時の扱われ方のひどさでした。扱う、って、まるで物のような言い方だけれど、その表現がしっくりきてしまうのです。この作品で主人公が置かれている立場って。

日本でもかつては月経小屋なるものがあったそうですし(私が読んだ本によると、月経中はゆっくりとからだを休めるためにそのような施設があったと。そこは世代交流の場にもなっていたと。実際に体験したことはないのであくまで書物による知識ですが)、現代に於いても一部では月経時に神社仏閣を参拝するのはいけない、という考えもあるので<月経が穢れ>だというのは日印(その他の社会にも)共にあるのでしょうが、それにしても、その”穢れ”とされているものを忌み嫌い遠ざける様がなんとも露骨で。この家の男性二人の根底(つまりは伝統的インド・インドだけではないこれまでの多くの世の中の価値観)に無意識レベルで<女性は元来穢れた存在>という認識があるように強烈に感じられます。
主人公に月のものが始まると、台所仕事は禁じられ、夫や舅が巡礼に入り41日間の禁欲生活に入ると、主人公である妻の姿を見ることさえも禁を破るとして忌み嫌われ、日当たりの悪そうな狭い部屋をあてがわれ、経血で汚してしまった時に洗えないものの上で寝てはいけないとベッドで寝ることも許されず、ゴザで眠ることを命じられます。
ちなみにこの月経時の女性の過ごし方を主人公に指南するのは、義母が家を空けて女手が一つしかないこの家の助っ人にやってきた舅の妹で、下着の干し方やらナプキンの捨て方やらを細かに主人公に教えていくのですが、それはつまりこの女性が、月経中はそう過ごすことが当たり前として育ち自らもそれをずっと守りやってきたということ。
パンフレットによると、現代インドでここまで厳格に月経中の禁忌を守るところは少ないそうなのですが、月経中は神聖な空間には近づけないという風習は今でもみられるそう。

日本で月経中の参拝が禁止されていたのは経血でその場を物理的に汚してしまう可能性があったというのが理由の一つのようですし、むあっと蒸し暑いであろうインドの気候では排泄物や経血などが高い外気温によって何らかの病気の発生源になる可能性もあったと思うので衛生面を考えると隔離の発想になるのは想像にかたくないのですが、が。それにしたって。後天的にそれ以上の意味付けが意図的になされてるとしか思えない忌みかたなのです。


月経は穢れであるとし、この地域にあるヒンズー教の名刹は月経がある年齢の女性の参拝が1991年に最高裁の判決で禁止されたそうなのですが、それを違憲だとする訴えが起き2018年に全ての人の宗教と信仰の自由を謳う憲法25条と26条に基づきすべての年代の女性の参拝を認めるという判決が出されたそう。しかしそれは時に暴動さえも起こすほど議論の的になっているそう。

物語のラスト、主人公はあることをして婚家を出ていくのですが、それはこの物語が始まって以来、主人公が初めて外を歩くシーン。憤怒を全身にみなぎらせながら海岸沿いの道路を歩く主人公の背後には「私たちは閉経まで(参拝を)待てる」と書かれたプラカードを持った女性たちの姿が映し出されていました。2018年の判決に女性のすべてが賛同しているわけではない、という姿が。


伝統を誇りに思い伝統を重んじるためその慣習を受け入れることをいとわないという考えがあるのも理解できます。一人の人間は様々な要素で構成されていて、それは個人の生まれ持った性質だったり育ってきた環境や受けてきた教育の違いだったりが育んだものであったり。
私の理解なぞ全く及ばない複雑な宗教観のあるであろうインド社会、そこには日本とは別の種類の問題の原因があることは頭の片隅に置いておきながらあくまで日本でぬくぬくと育ってきた私個人が感じたことを記すと、誰か特定の層の権威を維持するためにそれ以外の人が強いられている理不尽を大人しく受け入れる性質を構成するその要素の一つに、本人も意識していないようなところで「自分がこれまで慣習によって強いられ耐えてきた苦しさから、同じ属性の他の人が解放されるのが許せない」という感情は確実に存在するのではないか、と。
頭では納得して長い時間受け入れ続けてきたけれど、心のどこかでは理不尽を感じ苦しんできたからこそ、自分以外の人が足かせを外され解放へ向かうことが許せなくなるのでは、と。認めたくないけれど、私にもそういう感情はあります。

これまた自分に引き付けた小さな世界での話しになってしまい恐縮なのですが、ある世代が下の世代の”自由”に見える雰囲気を「なってない!!けしからん!!!」と怒りの感情と共に非難してる状況を見ると、中学の部活生活での出来事が浮かんでくるんです。
自由にのびのび振る舞うなんて許さない!私達が体験してきた苦しさをあなた達も味わうべきだ、という、考えというよりは感情に近いもの。
あんな、一つずつしか歳の違わない小さな小さな社会の中で謎に厳しい理不尽な上下関係があって、一年のときは「自分が先輩になったらこんなことは絶対に後輩にはしないよね~!」なんて言ってるのに、実際に後輩が入ってくると同じように理不尽に振る舞う、という矛盾。自分達が見ていた先輩の姿を再生してしまったり、権威的に振る舞うことの快感を感じてたり。

勿論、敢えて、の厳しさが必要とされる状況や世界があるのは理解しています。それはあくまで、厳しく振舞う側がその振舞の意図をちゃんと理解していて、決して個人的な恨みの発散や優越感という快感のために行われるものではなく自分以外の目的のために行われるもの。人間だからそりゃあたまにはそんなネトっとした感情に突き動かされて自分が権威的に振舞える相手に傍若無人な振る舞いをしてしまうこともあるでしょうが、それがその人の立場ゆえに受け入れられ許され続けるのは、敢えての厳しい振舞とは全くの別物。

丹力がいることでもありますよね。自分の負の感情を自分のうちで受け止め消化して、自分よりも弱い立場の他者にぶつけないようにするのって。
理不尽の再生産は自分で終わらせる、と決めてそう振舞うことって。痛みが癒えないままにそれを自分で引き取らなくてはいけないから。でも、自分が感じた苦しみを再生産して味合わせることの方がもっと嫌だから、そちらを選びたくはない。


人って、生まれながらよっぽどの人格者でない限り、自分が経験したことのない痛みはイマイチ理解できないし、そもそもそこに痛みとその発生源があることに気が付きもしなかったりするものだと思います。見ようとしないから見えない、というようりもっと以前の、自分の半径一メートルの外にある他の誰かの小さな苦しみに対してはレーダーがほとんど作動しないような状態。他者の痛みに敏感な人も世の中にはたくさんいますが、それ以上にそうでない人が多数であるかと。
他者の痛みに鈍感である方が生きていきやすいですしね。
パンフレットに、この作品をみた男性陣から「母親の姿を見ているようだった」という感想はたくさん寄せられたものの、まるで妻の姿を見てるようだった、という感想はとても少なかったと書いてあり、非常に興味深かったです。インドの中でもパートナーと家事にまつわる負担を分担してるカップルもいるでしょうし、無意識のうちに自分が同じような振る舞いをしてるということを見ないように、認識しないようにしている人も沢山いるのでしょうね。

この映画を観ていて感じたのは、それぞれの社会を水槽に例えると、それぞれの世界の価値観にどっぷりひたひたで育ち大人になったらその水槽に入れられた水の色しか見えないよね、ということでした。赤い水が入っていたら赤い水しか存在しない。青い水が入っていたら青い水しか存在しない。

透明な水の中で、それぞれがそれぞれの性質で太陽の光を反射できる多種多様な色が存在できる世界で、私は生きたい。そしてそれは伝統を軽んじることとは全くの別物だと思います。
問題意識をもった個々人それぞれの考え方や行動により、世代を経ることで誰かに痛みを強いる悪しき慣習がその存在を薄めていくのだとしたら、私は私の出来る範囲で自分の周りの水をろ過して色んな色が存在できる世界にしていきたい。

よその国の物語だから。こんなにひどいことは今の日本ではかなりの少数でしょ?と思考で受け止めようとしても激しく共感してしまうのは、私もまだ予め染められた水の中で息苦しさを強く感じているから。
そのことに気づかされる映画体験でした。

あぁ、まずは夫に思っていることを伝えよう。
理解されずとも伝えることを諦めないでいよう。
はじめの一歩は身近なところから、ですよね。

ついしん
パンフレットの解説がとても充実していて面白かったので、劇場に足を運ばれた際にはぜひ手に取られてみてください!今回の記事でも沢山参照させていただきました。ありがとうございます!


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