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供花が鳴く - Eversolitude [English translated]

“超高速のパノラマが”
“打ち付ける雫で歪んでいく”

Scenery seen from a train window with rain drops

  Album: 1st EP "SLOWLYCOPPALSE" (2022)
  Vocal: Tayori, Gen Sunami
  Lyrics: Gen Sunami


供花が鳴く
項垂れる首は色を無くし始めている

Funeral flower has made sound,
Looked down and their color is beginning to fade

積み上がる雲の奥
狂気が遠巻きだが顕わになって 
誰がどう見てもこの後は雨だ

Deep in the dark clouds
Insanity is revealed at a distance
Obviously it will be rainy from now

透明になりそうな足元の私が 
行かないでと縋っている
18時の方向へ行ってしまったのは君なのに

You're myself going to disappear
You beg me and say don't go
Even though you have gone on your way

彩度の落ちた空に背を向けて 長い坂道を下ってゆく
この季節の列車の匂いに頭が痺れていく

I turned back to cloudy sky and going down long hill
I've become numb that caused by smell in the train at this time of year

超高速のパノラマが 打ち付ける雫で歪んでいく
結局 自分でもまだ分かっていない

Scenery seen from a train window with rain drops
Well I don't know myself yet

一つ濡れてもみれば近づけるだろうか
乾き始めたアスファルトを蹴りながら
濡れることもできない遣る瀬無さに唇を噛んだ

Will I get closer if wet a little?
I stamp the ground getting dry,
And bite my lip about can't even get wet

鈍く鼻をつく血の感触
過日の影を踏む

Coppery smell of blood in my nose
Stepping on shadow of days gone

供花が鳴く
心の在処を問う
供花が鳴く
明日が掻き消して

Funeral flower makes sound
Asking where is your heart
Funeral flower makes sound
Daybreak drowns out that

嘯いた昨日または遠くに伸びる私の片鱗が
偏在する赦しを掻き集めては持ちきれずに泣いている

Yesterday when I boasted or parts of me that are stretching out
They cry to gather forgiveness is everywhere than can be hold

罪悪への逃避
逃げきれないと分かりきっているから存在してはいけない場所へ針を捻じ曲げる

And escape to feel guilty
I force myself to go anywhere I can never be when I know very well that will never escape

もういいだろ?
いい加減にしてくれよ 
本当はもう見えていないんだろ?
その沈み切った瞳で お前は

That's enough
I can't take anymore
You can't see anymore yet, right?
Your eyes have long been cloudy, you

お前は 何を見ていたんだよ
What had you seen



 私自身の気持ちを隠さず、単刀直入にいうと、Eversolitudeの前身バンドであるSolitude A Sleepless Nights後期のボーカルで、脱退から少し経ちこの世を去ってしまった田村芳樹について、私は今も彼の影をどこか追ってしまうような気持ちでいます。それは決して積極的ではなく、遠目に、彼と生前関わっていた方々が彼に対して何を思っていたか、何をして過ごしていたか、それをネットを通じて見に行くくらいです。でも、彼がSASNの楽曲で書いた歌詞はとても素晴らしいものだと思いますし、NefertitiやThe Rectitude Pulsationの歌詞は未だに何も見ず歌うことができます。Nefertitiのリリース後に彼のインスタライブを見に行って、そこで私の名前を挙げてもらったこともあります。そのくらい記憶に在るもので、それを作った張本人が、今の自分よりも若い時分に居なくなり、もう二度と会うことも言葉や活動を追うこともできないという事実は、やはり、割り切れないところがあります。
 私は未だ、物心ついてから、身近な人や大事な人を直接亡くした経験がありません。もしかすると彼を通じて、私は今までにない、しかし現代の人間が誰しも通る経験をしているのかもしれません。この世にもういないという事実は、常に覚えていなくとも、時々思い出して、少しずつ気持ちを蝕んでいく思いがします。

 直接言及してよいのか、確証がありませんが、この「供花が鳴く」は、田村芳樹が亡くなった後のことが基となった曲である可能性が高そうです。
 彼が亡くなったのは2021年5月10日で、この曲の冒頭には梅雨・初夏の情景が非常に濃く描写されており、「供花」はまさしく亡くなった人に捧げられる花のこと。今の日本では6月中旬から7月中旬にかけて梅雨の時期が続きますから、この楽曲は49日を迎えるか迎えないかの頃ではないか、と推測できます。
 さらにそしてこの楽曲の次、Tr.2過日の影を踏むは、SASN時代の楽曲Nefertitiのリアレンジ・リメイクとも呼べる楽曲です。Nefertitiは、田村芳樹の作詞を軸にソングライティングを行うといった、当時のSASNにとっても初めての試みを行った特別な作品です。
 Nefertitiのリメイク楽曲のイントロダクションとも言える「供花が鳴く」。「供花」という人の臨終に直接かかわる言葉。そして田村芳樹の亡くなった季節からほんの少し経った時期の楽曲であること。


 とはいえ、Eversolitudeで初めてこのバンドを知った方からすれば、預かり知らない話であるのも事実であり、たった一つの出来事に、曲を楽しむ人たちの視野を収束させてしまうのも、それはきっと無粋なことだよな、と思います。それにもしかすると、この曲の描写も、フィクションであったり、別の誰かについての曲である可能性もあります。
 ただ、私にはこれらの事実と自分自身の気持ちから、きっとそのことを綴った曲なのだろう、と思えてなりませんでした。そう思うことで、少し気持ちが楽になりました。私は彼に対し何か特別なことをした人ではきっとありませんが、何もできないうちにいなくなってしまった彼に対し、何かしたい気持ちは、自分のどこかに薄く引き伸ばされて存在していました。そのことに、この曲の悲しみに触れて、ようやく少し気付けた気がしたのです。


 上記の情景だけがこの曲の魅力ではありません。冒頭の歌詞はコマアニメのように順番の情景で進行し、それはポエトリー的歌唱によって雨のように足早に流れていきます。それがそのまま、内面的な悲しみの発露、サビへと接続されていく。この流れが非常にきれいな曲だと思います。

供花が鳴く
項垂れる首は色を無くし始めている

Funeral flower makes sound,
Looked down and their color is beginning to fade

 訳の意図について説明しながら、曲の流れを追っていきます。
 「供花が鳴く」という言葉は、「供花が音を立てた」という意味だと解釈しました。
 花が咲く期間にはもちろん限界があり、時間が経つと花が枯れ、落ちることがあります。花が落ちたとき、床や地面などにあたって広がった音を、「供花が鳴く」と表現したのではないか、と私は思っています。
 「項垂れる首」や「色を無くしはじめている」も、花が落ちるほど茎の部分も弱っている、すなわち花としての役目を終えつつある時期を示しているように思えます。

 「供花が鳴く」についてはこのとおり翻訳しました(加えて、現在完了形にすることで、「このとき」を強調するように意識しました)、
 「項垂れる首」の行はFlowers witheredなど直接的に「枯れていく、萎れていく」ことを明示してもよかったかもしれませんが、比喩的に表現した歌詞にできるだけ近づいた訳にしたいと思った結果、直訳的になりました。

 花束として活けられた花は、手入れをすることで長持ちします。とはいえ、49日の頃ともなると、葬式の頃に贈られた供花は、もう残っていないように思います。
 推測ですが、墓前や仏壇など、花が添えられるべき場所に新しい花が添えられ続けていたのではないか、と思います。この後の歌詞で分かりますが、歌い手はこの描写の後に外に出て、行きの道か帰り道かを辿っているため、自分の家ではない、まさしく墓前や仏壇などに参っていて、そのときの出来事がこの曲の舞台なのではないか、と思います。

積み上がる雲の奥
狂気が遠巻きだが顕わになって 
誰がどう見てもこの後は雨だ

Deep in the dark clouds
Insanity is revealed at a distance
Obviously it will be rainy from now

 「積み上がる雲」「この後は雨」という描写は、気温の上がる夏にかけ見られる雲の種類である積乱雲を示すのだと思います。加えて、この曲のイントロのSEは、どこかじめっとした、雨足のような音にも聞こえます。このあたりの描写から、この歌い手は日本の梅雨の時期に居るのだと想定しました。
 また、この雲を「狂気が顕わになって」と表現することから、この先に激情が待ち受けていることを予感させます。「遠巻きだが」「雲の奥」という描写からおそらく積乱雲に狂気を見出していて、それが今から迫ってくる、ということを予感させる歌詞にもなっています。これはこの後の曲の展開とも非常にマッチしていて、美しいです。

 「積み上がる雲」は「積乱雲」であると解釈した……のですが、積乱雲を示すcumulonimbusにすると元の歌詞と比較して直接的すぎると思い、dark cloudsに留めました。「誰がどう見てもこの後は雨」に繋げつつ、直接的に積乱雲であるという描写を避けた、という次第です。cumulus(積雲)にする案もあったのですが、気象方面にはまったく学がないのと、積雲の発達段階に積乱雲があるものの積雲自体は雨や雷を伴わないことから、積雲という表現は避けました。

透明になりそうな足元の私が 
行かないでと縋っている
18時の方向へ行ってしまったのは君なのに

You're myself going to disappear
You beg me and say don't go
Even though you have gone on your way

 情景描写ではなく心象描写に近いと思いますので、歌詞の細かな話を省きますが、情景描写の中にこういった心象描写が入り混じって、最終的に心象だけが書かれたサビに繋がる……という構成は、非常に巧みだと思います。

 野暮かもしれませんが、なぜ巧みと感じるか残しておきたいと思います。
 こういった叙情とも呼べる表現は、ともすれば心象描写の比重が重くなりがちです。心象描写はそれを思い描いた人自身はその言葉を見て様々なことを思い出せますが、同じような感情を示した心象描写であってもそれは他人の心象描写と乖離する場合が多く、聞き手にはっきりとは伝わらない場面が多いです。だからこそ叙情は、叫ぶことで、泣くことで、言葉では伝わりにくいただならぬ感情を伝えようと必死になるのかもしれません。
 でもこれはある種仕方のないことで、なぜなら、心象描写のもとである感情、すなわち人の懐いた情景や気持ちは、まったく多種多様で、十人十色で、三者三葉で、人によって全然違う姿かたちをしているから。そして人は、その心象が辛く苦しく共有できないものであるほど、誰かに、可能ならば、そっくりそのまま理解してほしいと心のどこかで願ってしまうからです。でも、そんな複雑で形の違うものを、「言葉」「絵」「音楽」といった方法で完全無欠に表現することは、きっとできないと私は思います。「悲しみ」「悔しさ」「妬み」などと言葉で表せても、その詳細までも共有することはできません。では説明しようとして様々なパーツを切り貼りしても、やはり人によって形が違いすぎて、ぱっと直感できませんし、どれだけ歩み寄ろうとしても完全に真に迫ることはできません(これは経験則です。このnoteで、出来る限りたくさんの記事を書いてきた経験から言っています)。
 これは人間の感情が複雑であるという現実がもたらす問題であり、叙情的な表現を取り扱う以上、避けて通れない問題です。

 この曲の表現の何が優れているかというと、人によって形が違い共有が極めて不可能に近い「心象描写」と、事実であるという側面だけは五感的に共有が容易である「情景描写」が入れ混じることで、「理解しにくいもの」が「理解しやすいもの」と混ざっていく感覚になることだと思います。これにより「理解しやすいもの」は小休止や幕間のようなものとして機能します。また「情景描写」の比率が多い前半が続き、その速度は雨のようなポエトリーで綴られることから、映像のように、コマのように、情景のイメージを高速で巡らせることができます。しかもこの曲の「情景描写」はちゃんと時系列があって連続的に思考できるものから非常に論理的で人間の思考が追いつきやすい。
 この高速の思考と五感のまま「心象描写」に入ることで、聞き手が本来分かりにくいものである「心象描写」を、高速の思考と五感のまま迎えることができ、それに近づく可能性を少しでも上げることができます。
 きっとその助けを得ても、この曲の描写のきめ細かなところまで完全に、頭からつま先まで理解することはできないでしょう。でも、それに迫れるかもしれない、「理解できないから感覚で聴こう」ではなく「今なら分かるかもしれない」という気持ちにさせる、そういった優れた表現だと思います。

 心象描写は極めてパーソナルで理解がほぼ不可能なものですが、それを不可能だからといって触れられないままでは、人間の辛く悲しい出来事は発露する先を失くし、その人の精神をただ苛烈に蝕んでいきます。だから、誰かが聴こうとしないといけないのだと思います。完全に理解することはできなくても、できるだけそうしたい、そのための努力を惜しまない、という姿勢が、閉じていく人間の感情には必要な救いなのだと思います。
 だから、その心象描写の聞き手に対し、「今なら分かるかもしれない」という感覚を持たせ続けることは、叙情的表現のできる非常に重要な役割だと思います。それを体現する形として、一つの完成形ではないかと、私はこの曲に対して強く思います。ポエトリーリーディングだからこそ為せる業、とも言えるかもしれませんし、これは私の好きな表現ですので、その極致の一つとして非常に感動する思いです。

 あくまで上記は、私の拙い言葉と、また「言葉」が持つ「現実を完全無欠に表すことはできない」という性質から、この曲が持つものをまったく正しく全て表現するものではありません。ですが、言葉にできそうな部分はそれなりにあるなと思い、書かせていただきました。

 歌詞の翻訳はできるだけ直訳に近づけたつもりですが、私の心象が混ざってしまっている気がかなりします。こればかりはきっと、完全に近付けることはできないのだと思います。でも、なんとか近付けようとすること自体が重要だと思っていますし、精進します。

 余談なのですが、楽曲のコンポーザーであるGen Sunamiは、SASN時代の自身について感じていた負い目がある、と別の楽曲のライナーノーツで語っています。

小手先の歌詞でありもしない痛みや悲しみがさも実在するかのように振舞って、存在しない心の痛みを免罪符に人の心に踏み込んであまつさえそれを共有しようとした浅ましさや自分の中の履き違えた音楽観が許せなかった。
そういうことばかりしているうちにいつのまにか大好きだった叙情のカテゴライズが自己嫌悪で聴くことができなくなってしまった。だから過去の自分に向けたできる限りのリアルな感情を歌詞にしたかった。

OVERWRITE - SELF LINER NOTES by Gen Sunami

 バンド名をEversolitudeと一新し、最初にリリースした楽曲"OVERWRITE"のセルフライナーノーツにて綴られるこの言葉は、どこかこの"供花が鳴く"にも通底する部分があるように思えます。
 「ありもしない痛みや悲しみがさも実在するかのように振舞うことが許せなかった」「できる限りのリアルな感情を歌詞にしたかった」
 それが収斂する先として、この「情景描写と心象描写が混ざる歌詞」というのは、彼の気持ちに対して自然で落ち着いた形なのかもしれません。
 この記事とこの歌詞のあらわれは、人並み外れた思慮と苦悩の果てに辿り着いた先であることが分かり、私はとても好きです。苦悩という感情を否定するのではなく、それが実在することを肯定し、できるだけ実在するものを取り扱う、という姿勢に至った文脈は、アウフヘーベン的で美しいです。
 そう考えると、この"供花が鳴く"は、叙情というジャンルを受け付けられなくなった状態から脱した、彼らとしても納得感をもって生まれた楽曲なのではないでしょうか。


彩度の落ちた空に背を向けて 長い坂道を下ってゆく
この季節の列車の匂いに頭が痺れていく

I turned back to cloudy sky and going down long hill
I've become numb that caused by smell in the train at this time of year

 「彩度の落ちた空」は、雲に覆われた空を示している可能性が高いです。昼間や夕方の空は青であったり橙であったりと彩度を持った色を示していますが、彩度が低い空とは「雲」の他には「夜」しかありません。しかし夜も目を凝らすと深い青のような色をしていますし、私には「彩度の落ちた空」は、白・灰・黒色の成分が強い、雲に覆われた空なのだと思います。
 「この季節の列車の匂い」という描写は、ここまで積み重ねた「雨」「梅雨時」という印象を、言葉を聴いた人の嗅覚に訴える、非常に五感的な表現だと思います。既に聴覚と思考で雨をイメージしているところを、さらに匂いまでも想起させ、梅雨時の臨場感を一気に上げます。また、この「列車」という描写、すなわち歌い手が列車の中に乗ったという描写は後々重要になります。

 「彩度の落ちた空」は、「雲に覆われた空」という形で意訳してしまいました。彩度という概念が一般にどれだけ伝わるのか、特に「彩度」を示すSaturation/Chromaが、「空(sky)」と文字を伴にしたとき、英語圏の人にとってどれだけ曇り空が明確にイメージできるのか、まったく別のものや意味不明なものを示してしまう可能性もあり自信がなかったので、直接的に情景が伝わるclowdy skyを選定しました。
 「列車」はちょっと悩みました。どちらかというと現代日本においては「電車」としてしまった方がより具体的ですし、現代の日本人にとってはあの梅雨時のぐっしょりした電車の中の空気感は独特なので、なるべく詳細に表そうかとは悩みましたが、海外の電車というものを直接見たこともなければその空気感が日本の雨の時期とどれほど違うのか、違わないのか、そもそもなさ過ぎて伝わらないのかが地域によってまったく違うなと思ったので、最早一般用語であるtrainにして、どんな空気感なのか詳細に知りたい人は梅雨時の日本の電車に乗ってみてくれ、そうでないと伝わらないよな、という形にしました。

超高速のパノラマが 打ち付ける雫で歪んでいく
結局 自分でもまだ分かっていない

Scenery seen from a train window with rain drops
Well I don't know myself yet

 「超高速のパノラマが打ち付ける雫で歪んでいく」という歌詞ですが、最初、どんな情景なのかよくわからなくて、翻訳しているときにようやくわかった気がして、その時はかなり感動しました。
 前段の歌詞にある「列車の匂い」から歌い手は電車の中にいる可能性が高いです。加えて、後述で「一つ濡れてもみれば」という歌詞が出ることから、ここまでは屋内=電車内にいる可能性がより高まります。さらに言えば、この楽曲が収録されたEP "SLOWLYCOLLAPSE"のジャケットは電車の車窓からの景色を撮った写真です。
 パノラマという言葉が示すものは現代において多々ありますが、ようは「広い視野の全体、ひろびろとした見渡す限りの景色」を示しています。特に車窓など、景色が移り変わりながらも車窓という箱庭に視界が限られている景色は「パノラマ」と表現しても間違いのないものと思います。
 (パノラマは、「広い視野の全体」を表す意味、パノラマ写真、360°VR写真、1700~1800年代に創案・発展したパノラマ装置、ショーウインドウの技法、パノラマ台……など、意味が非常に広いように思います。原義であるパノラマ装置や派生のショーウインドウを見ると、車窓をパノラマと表現する気持ちも少し分かります。限られた空間に遠近がちりばめられ、それが移り変わることで広い景色を時間的に眺めることができる。現代の身近なパノラマではないでしょうか。専門の人に怒られるかもしれませんが……)

 すなわち「移動する電車の車窓から見た風景」が「超高速のパノラマ」だと考えます。
 そして、「打ち付ける雫で歪んでいく」というのは、窓を濡らし景色を変えるほど激しい雨が車窓を打ち付けている……という情景だと思います。雨を連想する理由はここまで説明した通りです。

 EPのアートワークがこの歌詞の情景への想像を掻き立てるような作りになっていて、非常に巧みだと思います。


後地味にジャケットの写真も自分が撮りました。
カメラほぼ触ったことない状態でこれ撮れたの地味にビギナーズラック感あるけど好きな写真です。
アートワークをアップした時、速攻でこの写真が常磐線松戸〜北千住間なのバレてウケました。
何を隠そう自分は松戸住みなので地元をレップして歌詞の実在性や解像度を上げたかったので即バレは結構嬉しかったです。この辺住んでる人は見知った光景と詩、曲を重ね合わせてくれたらこのEPの効き目が長く強くなるかもしれないです。

SLOWLYCOLLAPSE (セルフライナーノーツ by Gen Sunami)


SLOWLYCOLLAPSEのジャケット。
車ではなく、電車の車窓である。


一つ濡れてもみれば近づけるだろうか
乾き始めたアスファルトを蹴りながら
濡れることもできない遣る瀬無さに唇を噛んだ

Will I get closer if wet a little?
I stamp the ground getting dry,
And bite my lip about I can't even get wet

 「一つ濡れてもみれば近づけるだろうか」の「濡れる」はおそらく雨に濡れることで、「乾き始めたアスファルト」「濡れることもできない」から、電車から降りる頃には雨が止んだ後の場所だった、という状態を示しているように思えます。積乱雲は往々にして局所的に発生しますし、雲と電車の行先が逆行していれば、電車の行先ではとうに雨が上がっていて晴れている、ということが起きているかもしれません。なので、電車から降りた頃には、とうに雨が過ぎ、アスファルトが乾き始めていたのだと思います。

 この「濡れる」「乾く」について単なる感想なのですが、Eversolitudeの前身バンドであるSolitude A Sleepless Nightsの楽曲"The Rectitude Pulsation"の歌詞において重要な位置づけになっているのが、「乾くこと」と「潤むこと」です。正確な脈動を失った状態、澱んだ状態が「乾いた」と、そこから脱却した状態が「潤んだ」と表現されており、具体的には「乾いた瞼」「潤んだ瞼」と書かれています。これは「泣くこともできない→乾いた状態→澱んだ心象」「泣くことができた→潤んだ状態→ありたい場所に戻った状態(再生を取り戻した状態)」と表現されている……という風に思います。過去にそういう記事を書きました。
 この歌詞の「濡れる」「乾く」についても、The Rectitude Pulsationの歌詞で示された「乾く」「潤む」の考え方が、通奏低音のように生きているのかなと思いました。奇しくもThe Rectitude Pulsationの歌詞は田村芳樹の作詞であり、先述した「供花」の推察ともかみ合います。
 田村芳樹が描いた「乾く」「潤む」という状態の定義のとおり、この"供花が鳴く"でも心境が描写されているのではないか、と私には思えます。それはバンド側が意図したものなのかもしれませんし、作為的ではなく偶然なのかもしれませんが、私にはそう見えました。

 ちなみにコンポーザーGen Sunamiのセルフライナーノーツでは「(Eversolitudeの過去曲である)劣夏にも通じるところがある」と言及されており、「劣夏」の英字タイトル(バンドが付けたもの)は" Withered Summer"、直訳で枯れた夏と示せます。そもそもwitherは「乾燥して萎む」という意味です。つまり「乾いて」います。
 ここまでくるとこじつけかもしれませんが、彼らの曲は暗い印象の曲で「乾く」に準ずる言葉が連ねられていて、やはり通奏低音的な考えなのだろうか、これが彼らの心象風景なのだろうか、という気配があります。

 あ、長くなってすみません、あとすごい余談ですが……。この曲の次の「供花が鳴く」から始まるリードギターのフレーズなのですが、The Rectitude Pulsationのイントロのバンドサウンドがわっと鳴りだすところのフレーズをゆっくりにしたっぽく聞こえないですか?耳コピなどはしていないし、たまたま似ているだけ、私にとってそう聞こえるだけ、かもしれませんが、個人的にそれがこの"供花が鳴く"の好きな部分でもあります。
 ……改めて聞きなおすと、雨の音で始まるイントロという意味で共通していたり、逆再生のピアノとクリーンギターが強調された音遣いで始まるところだったり、なんだかThe Rectitude Pulsationのイントロをゆっくりにして1曲にしたような印象を"供花が鳴く"から受けます。この曲だけでも何十回もリピートして聴けるくらいには好きなのですが、The Rectitude Pulsationも同時に何十回もリピートできますし、そうなのかも。
 バンドは新しい時間を歩んでいく(それ自体が簡単に実現できることではないし、ありがたいことで)けど、昔の曲が今も素敵に聴こえるというのは、離れられない事実なのかもしれません。しかし、新しい曲は、それを踏まえた先でもっと別のものや更なるものに仕上がっていて、新しい曲が出来てそれがまた好きになる過程にも、かけがえのないものを感じます。新しい曲ができるということは、そういう体験ができる可能性が増えるということで、続けてくれないとそれは起こりえないことで、だから昔の曲が素晴らしいことも、新しい曲が素晴らしいことも、どちらもかけがえのないことです。


供花が鳴く
心の在処を問う
供花が鳴く
明日が掻き消して

Funeral flower makes sound
Asking where is your heart
Funeral flower makes sound
Daybreak drowns out that

 ここからは心象風景のパートになるのでより具体性を欠いた話になりますが、この「明日が掻き消して」という表現について思ったことを書くと、「掻き消す」は音を掻き消すのだと思っています。何の音かというと「供花が鳴らした音を掻き消す」ということだと思います。
 なんとなく思うのですが、ここの「供花が鳴く」というのは、その瞬間その場所で供花の萎んだ花が地面に落ちた音がしている……のではなく、その音を記憶で覚えているのだと思います。そしてその音は曲名にもなるほど印象的な音で、きっと様々な情景が思い出されるのではないかと思います。例えば、この曲の冒頭の「供花が鳴く」のフレーズから、このサビに至るまでに綴られた歌詞は、「供花の花が落ちた音」が連想させるイメージの一例なのではないでしょうか。そして、そのイメージは歌い手の中でどこか心残りのように、敢えて表現するなら「大切なもの」として根付いている。心残りをするということは、それは切り離せない、忘れてはならないものではないかと思うのです。心残りをしていると私が思う理由は、このサビの歌詞が、「供花が鳴いた音」と「それが連想するイメージ」を、まるで頭の中で反芻して思い出す、思い出さずにはいられないような歌詞に聞こえるからです。
 けれど、そんな大事なイメージを、「明日が(供花の花が落ちる音を)掻き消す」のです。どういうことかというと、これまた本当に"私の思ったこと"になっていくのですが、「明日」とは「夜明け」だと思っていて、夜が明け日が変わるごとに、供花の花が落ちる音と、それがイメージさせる大切な心象が、新しい日によって書き換えられてしまう。想像してほしいのですが、どれだけ前の日の眠る前に意気込んだことや、大切だと思ったこと、嬉しかったこと、悲しかったことも、寝起きにはうまく思い出せず、下手するとその日一日中思い出せず、何日も経ってやっとふと思い出す……ということはないでしょうか。「明日が掻き消す」とは、そういった「寝て起きたら忘れてしまう、大切なことなのに」ということを言っていて、それが悔しくて、叫ぶように歌っているのではないかと、私には思えます。

 訳の話ですが、ここの「供花が鳴く」は冒頭と訳をやや変更しています。とはいっても文法的な小手先なのですが……。
 冒頭:Funeral flower has made sound
 サビ:Funeral flower makes sound
 これは、冒頭が「情景描写」、サビが「心象描写」に基づく「供花が鳴く」だと私は考えているからです。簡単に言うと、冒頭の供花が落ちる音は歌い手がその場に居合わせ本当に聴いた音であり、サビの供花が落ちる音は冒頭のような場面で実際に聴いた音の記憶を何度も反芻している、という風に見えたから、そのニュアンスを損なわないように訳した、ということです。
 冒頭は現在完了形なので「今、花が落ちる音を聞き終わった」ということで、サビは現在形(すなわち習慣を表す)なので「花が落ちる音がいつも聞こえてくる(何度も思い出される)」というニュアンスを表そうとしています。といってもただの文法の知識であり実際の会話を通じた実践は残念ながらできていないので、英語圏の人にそれと分かるように伝わるかは定かではありません。少しでも伝わるとよいのですが。


嘯いた昨日または遠くに伸びる私の片鱗が
偏在する赦しを掻き集めては持ちきれずに泣いている

Yesterday when I boasted or parts of me that are stretching out
They cry to gather forgiveness is everywhere than can be hold

 「嘯いた昨日または遠くに伸びる私の片鱗」なのですが、これはもしかすると、Eversolitudeの楽曲"劣夏"の情景とかなり似たものか同一のものなのかもしれません。

劣夏の歌詞と英訳(英訳はSeigaのもの)。
劣夏も全部英訳したのですが記事化するかは未定です。

 劣夏では「伸びる影法師 初めから届かない陽炎に近づくだけ」と表現されていますが、「伸びる影法師」は「遠くに伸びる私の片鱗」と置き換えが可能かもしれません。この劣夏の歌詞は色んな方向で解釈可能だと思いますが、敢えて私が思ったものを書くとすれば、「何かしら手を伸ばしたい場所に手を伸ばして、結局届くことがなかった過去の自分と、それを今でも繰り返してしまう自分を傍観している」、という心象風景に思えます。
 さらにこれは「過日の影を踏む」という曲名・歌詞にも共通する部分が見えます。過去の自分の影を踏む、それを見つめている、という状態。為したいことを為せなかった過去の自分の動きをじっと見ている、それは、もしかするとあまり好い心境を表した言葉ではないのかもしれません。あるいはそういった暗い一面がある言葉なのかもしれません。

 また「偏在する赦しを搔き集めては泣いている」という歌詞は、共有できない悲しみや苦しみを背負った人の行動としてよくあるものであり、同時に非常に悲しい状況だと思います。
 これは私の解釈に過ぎず間違っているかもしれませんが、「偏在する~を搔き集める」とはすなわち「ありふれた」ものを搔き集める。「ありふれた赦し」とは、「誰にでも言える赦しの言葉、万病の薬だと嘯いて誇大される言葉」ではないかと思います。
 「こういう解決策がある」という姿勢ではなく「これこそが(誰しにも、どんな状況にも適用できる)最高の方法だ」という形で広まる数々の言葉。よくtwitterで見ました。それは言っている内容に正誤があるのではなく、SNSというプラットフォームとそれを利用する人間にある功と罪です。「用途容量を守ってください」と書置きすることもなく、読む側がそれを了解していない状況では、よく起こりえることです。
 例えるならば、特別な理由もなく、足の骨を折った人に花粉の薬を飲ませるようなもので、効き目がないどころか自体を悪化させる可能性もあります。しかも心の欠乏を埋めるために薬を搔き集めてしまう人は、救いを求めてさらなる「万病の薬」を搔き集め、それの効き目が表れず、どんどん逆効果になっていく可能性もある。開かれたコミュニティでは、そういった個々の事情をケアする人が誰もいない状況が往々にして起こります。
 この状況はまさに、前述した「共有できない悲しみや苦しみを背負った人」が生み出してしまいがちです。誰にもうまく伝えられず、誰もうまく聴きとってくれないから、自力でなんとか赦しを求めようとして、よく目に流れてくる「万病の薬」に一時的に癒されます。でもそれは心の芯を捉えたものではないし、ものによっては癒されるどころか傷つけられることもあります。まったく悪意のなさそうな言葉なのに、励まそうとしている言葉に見えるのに、それが自分に突き刺さって聴こえる。そんな状況がどんどん、その人の心を悪化させていきます。自分のものの見方が最早狂っているんじゃないか。そんな狂った自分の芯を捉えてくれる人なんて、この世に一人もいないんじゃないか。「偏在する赦し=万病の薬」を搔き集め、それだけで心の欠乏を埋めようとした人間が、最後に辿る道です。

 一時的な赦しが間違った悪だとは思いません。しかし偽善だと思います。正しいことだと思わせる力があり、それゆえに広まります。それは誰かを救うことがありますが、別の誰かを果てしなく傷つけることがあります。一度救った誰かに対しても、その人をずっと支えるものにはなり得ず、それどころか牙を剥くことすらあります。大事なのは、赦しとは、心の欠乏した人へかけるべき言葉や行動とは、処方箋であって、対処であるべきであり、乱雑に万病の薬を与えるものではないということです。いつ何時どんな痛みにも通用する薬はありませんし、薬とは本来毒で、使い方を間違えれば人間の体を蝕みます。「言葉は刃物」というのはそういう意味も含んだ言葉だと思うのです。だから、偏在する言葉を無理矢理自分の口に入れようとしてはいけないし、口に入らない時は受け付けなくていいと思います。でもそんな余裕も見境も無くなってしまうのが、本当に心が辛くなってしまった人なので、このあたりは難しいことだなと思います。


罪悪への逃避 
逃げきれないと分かりきっているから存在してはいけない場所へ針を捻じ曲げる

And escape to feel guilty
I force myself to go anywhere I can never be when I know very well that will never escape

 「逃げきれないと分かり切っているから存在してはいけない場所へ針を捻じ曲げる」という歌詞も、私には非常に悲しいものに映ります。
 どう頑張ってもこの状況を脱せる未来が見えない、という言葉通りの状況が起きてしまう人が、この世には一定数いると思います。その限界、本当に本当の限界を迎えた人は、この世を去ってしまうか、何とか生き永らえるかの2択を迫られます。
 大抵の場合、「何とか生き永らえる」が選択されますし、私もそっちを選んだのでその話をします。現代社会においてこの状況にある人は「物理的な生死の線上にいる」というよりも「精神的に病んでしまって生死の二択を迫られる」という状況の方が多いと思います。精神的に病んだものには、具体性や単一性がない場合もありますが、少なくとも原因らしきものは存在します。それが生きている限り継続的にその人を蝕んでいるから、限界と絶望をもたらします。なので、何とか生き永らえるのだと決めようとしても、限界に到達してしまった状況は何にも変わらず、苦しいだけです。
 では、状況も変わらないのにどうやって「何とか生き永らえる」のかというと、その解決の一つとして「自分の認識を捻じ曲げる」という方法があります。例えば、絶対にしないと決めていたことをやったり、絶対にやりたいと思っていたことを手放したりすることです。その人間を木に例えるなら、太い幹の根幹にあたるところをごっそり削った状態です。でもそうしないと、太い幹の根幹に病気の原因になってしまうものがあるから、仕方なく削り取ります。これはたまたま「削ってもいいくらい大事なものだということに、削って初めて気づきました」というパターンもありますが、本当に「これだけは削ってはいけないものなのに削ってしまった」ということも有り得ます。その気付きは往々にして、追い詰められた限界では気付く余裕もなく、生き永らえた先でふと気づいた時にどっとその人を襲うことになります。
 私には、この「追い詰められて、自分の根幹を手放した人が、その重大さを悔やんでいる状況」が、この歌詞から見えてしまいます。「逃げきれないと分かっている→このままだと限界」だから、「存在してはいけない方向へ針を捻じ曲げる→自分の最も重要な尊厳を手放す/直視すべき現実を曲解することで逃げる」のだと思うのです。
 もっと他の言葉で言い表せそうな気もしますが、そもそも人によって見え方が違う可能性もあるので、この辺りで留めておきます。


もういいだろ?
いい加減にしてくれよ 
本当はもう見えていないんだろ?
その沈み切った瞳で お前は
お前は 何を見ていたんだよ
That's enough
I can't take anymore
You can't see anymore yet, right?
Your eyes have long been cloudy, you
What had you seen

 ここまで可能な範囲で歌詞の話をしてきましたが、この部分に関しては具体的に推察することは難しいです。「もう見えていない」「沈み切った瞳」「何を見ていた」という描写は、私の覚えのある限りでは既存曲にない言葉……な気がします。何か心当たりがあれば誰か教えてください。気になります。
 一つ言えるのは、この曲の中ではおそらく唯一、明確に自身に対して後悔や自責と伴に奮起を促しています。ここでこの楽曲の雰囲気がかなり強く印象付けられます。それは、決して後悔と自責と痛みだけで終わりにしたくない、何かを変えなくてはならない、という歌い手の意思です。「いい加減にしてくれよ」など、ここまで直接的に誰かに対する攻撃性が現代語的に明確になったのは、OVERWRITEの叫びパートを除き他にないかもしれません。そんな記憶があります。




 ※本記事は、Tr.02 過日の影を踏む(Beyond Causality)に続きます。
  年明けに投稿予定です。皆様、よいお年を。