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10年、節目の片道切符

アメリカに行く。大それた野望も、勝算も、企みも、あったわけじゃない。無鉄砲だった。ただ「何かを変えなければ」と焦りだけがあった。駆け抜けた20代の終わり。住み慣れた地元の街。積み重ねてきたものをすべて投げ出そうとするぐらいには追い立てられていた。

何から?それがうまく言えたらよかった。秘密を抱えた家族との会話とか、景色に染み付いた失恋の記憶とか、何を得ても褪せない飢餓感とか。私にしか、いや私にすら理解できない。海外へ渡る理由になるはずもない。

もちろん、長年温めてきた純粋な思いもあった。旅行会社で経験した海外への添乗。泊数が限られた滞在を重ねるうちに、一度は住んでみたいと憧れるようになった。昔から英語が好きだった。大学の専攻は国際系。本場で言語を学んでみたい。それはかねてからの夢だった。

アメリカへ渡る、10日前に失恋した。なんてことはない、一年ぐらい付かず離れずだった人に本命がいたのだ。

「待ってるよ」の一言が欲しかったのだろう。自分で遠くへ行くのだと決めたくせに往生際が悪い。しかし彼が言うはずもなかった。わざわざ呼ばれた家で本命の存在に気付いた私は、言葉も残さず夜の街へ飛び出した。

一体なにがしたいのか。これから海を渡るんでしょう?後ろ髪を引かれる存在を作ろうとするなんて。

圧倒的に孤独になってやる、と思った。誰も知らない国で、場所で。

家族や友達に囲まれても寂しさを抱える自分なんか、こんな独りよがりでくだらない恋の末路なんか、太平洋に投げ捨てる。

30歳だった。

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シリコンバレー暮らし、報酬1200ドル。

インターンシップという身分で働き始めた当時を思い返すと、一番に出てくる感想が「貧乏だったなぁ」だ。当時は円高。報酬は日本円に換算すると9万円ちょっと。シリコンバレーは銀座と同じぐらいの地価や物価だと言われている。どうやって生計を立てていたのか、記憶が薄い。

2カ月ほど家探しをして、最終的に母と同世代ぐらいの中国人女性が住むアパートの一室を借りた。月に560ドル。海外に住んだ経験がなくピンときていなかったが、いま思えばホームステイでもなく、シェアハウスでもなく、ただの間借りだ。「臭いから魚は焼くな」が禁止事項だった。

同じインターンシップ仲間とともに、コストコで食料品を購入しては分け合った。みんなお金がない。粗食。次の報酬が入るまで一週間あるのに財布の中身が2.5ドルだったときは、さすがに後悔の二文字がよぎった。社会人8年目、こんなんでいいんか?

自転車を漕いで職場へ向かう日々。車社会の郊外でなかなか稀有な存在だったと思う。パトカーがサイレンを鳴らしながら走ってきたので「何か事件かな」と思ったら私が呼び止められた。逆車線の車道脇を走るのは違法らしい。警察官の英語が全然理解できないまま、黄色のチケットを切られた。

20代でがんばって貯めたお金は全部消えた。そのまま自分も消え入りそうな夜は、the pillowsの「スケアクロウ 」を聴いた。<夢の向こうまで 僕は旅を続けるつもりだよ キミを連れて> 私は、僕でもあり、キミでもあった。

アメリカで生きるために、必死だった。英語ができない自分は、存在しないのと同じで、その無力さに何度泣いたか分からない。けれど「やめとけばよかった」とは一度も思わなかった。意地もあった。それ以上に、私はこの街が好きだった。

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この10年間にあった出来事をすべて書き尽くすことはできない。誰の10年もそうであるように、私の10年もまた、いくつかの出会いと別れ、いくつもの希望と失望を、ひたすらに繰り返し続けた。何度も間違ったり彷徨ったりした。

シリコンバレーは、一流のIT企業が名を連ねる場所だ。それゆえに、ここで働く人たちもまた、高学歴だったり、大企業出身だったり、資産家だったり、いわゆる「すごい人」たちが多い。そんな中では、自分が何の能力も持たない者である事実を痛いほどに感じさせられる。

結果的に、3社で働いた後、今はできることが収入につながりやすいフリーランスの道を選んだ。やってみたい仕事はあるけれど、まだまだ能力が伴わない現実と向き合っている。

それでも。ここで大きな誇りを手に入れたように思う。文字通りゼロからスタートしたアメリカ生活で、立派に10年を生き貫いた。誰一人知り合いがいなかった異国の地で、会いたい人がいっぱいできた。

人生は可能性に満ちている。

シンプルだけど忘れたくない真理を、この街が教えてくれた。30歳で「もう遅い」なんて言ってたまるか。大丈夫。何とかなる。切り開く。それは何にも代え難いほど貴重な経験となった。やりがいのある仕事、身綺麗な洋服、流行りのコスメ、親や友達との時間、いろんなものと引き換えに、手にした自信。

そして、自分の人生は多くの人に支えられている事実もようやく理解した。孤独を背負った気でいたけれど、日本の家族も友人も、そんな私を見捨てず、いつも気にかけてくれた。この街で楽しく暮らせたのは「帰る場所」を作ってくれている人たちのおかげなのだった。

私に一つだけ特筆する能力があるとすれば、人に恵まれていることだと思う。

だから、新しい街に行くのも怖くない。どんな環境だって楽しめる。また少しずつ積み重ねて、作り上げていく。私には帰る場所が二つもあるから。シリコンバレーからシカゴへ。次の10年を自分なりに彩ろう。今度は、家族4人で。

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