自分の文章を信じるということ
晴れた日に屋外で味わう冷たいコーヒー。子どもたちが寝たあとの静寂と読書。葛藤や焦燥の先に希望が見える音楽。
編集教室から出された「好きなものを教えてください」の問い。私が前述のように回答すると、講師の方からこんなコメントが添えられた。
『共通しているのは、抑圧からの開放ですね』
自分では一貫性がないと感じていた答えに対して鮮やかに引かれた「抑圧」という一本線。思わず唸るようなプロの紐解きは、心に爽快な納得感を与えてくれた。燦々と降り注ぐ光にも元気をもらうけれど、私は身悶えの末に差し込む光にどうしても惹かれてしまう。
あ、消えている。と思ったときには、すでに成す術がない。もう一度読みたいと思った記事を訪れてみると無くなっていた。この冬だけで、そんな落胆が三度ほどあった。
理由はわからない。私生活との兼ね合いとかもう一度書き直そうとか反応が得られないとか、考えられる要素はいくらでもある。でも想像の域は出ないし、書き手さんに尋ねるなんて野暮な行動もしない。
ただ一つだけ伝えられたらよかったとは思う。私はあの文章が好きでした、と。
あなたの文章を読んで、泣きそうだった夜を笑って過ごせました。
あなたの文章を読んで、家族の歴史や伝統の大切さを知りました。
あなたの文章を読んで、社会問題へ関心を持つようになりました。
好きだなぁと思った書き手さんをフォローする。たくさん記事を読んだくせに、いっぱいスキを付けたら変かもと躊躇う。ぜんぜん変じゃない、とびきり嬉しいと知っている、でも。
いつだって、伝えられたことより、伝えられなかったことのほうがうんと多い。
それでも信じてほしいなんて、都合のいい話かもしれない。
何かを生み出して放った先に。この世界のどこかで勝手に癒されたり励まされたり気付かされたりする人がいるのだ。思いもよらないところに。
折に触れて脳裏に蘇る記憶。制作会社で働いていたある日、ライターさんと新人編集の私はミスドで向き合いながらドーナツを頬張っていた。
取材後の休憩なのか入稿日の合間なのか、前後の流れは覚えていない。残っているのは、たったひとつの会話。他愛もないお喋りの中、ライターさんは壁を見ながらぽつりと呟いた。
「いつかああいう仕事をするのが夢なんだよね」
不意打ちだったので「え?」と戸惑いながら彼女の視線を追いかけると、壁にはミスドの新商品を宣伝するポスターが貼られていた。ワンカット写真のシンプルなデザイン。添えられた一行のキャッチコピー。素人目の私から見ても洗練された広告だった。
彼女はそう言葉を残して、またドーナツを食べ始めた。
その瞬間まで、私はライターさんが他にやりたいことを胸に秘めているなど考えもしなかった。それぐらい、彼女の仕事ぶりは完璧で隙がなくて、本人も楽しんでいるように見えたからだ。
濃い時間を過ごした時代、他にも印象的な出来事はあったはずなのに。あの何気ない会話が強く記憶に刻まれたのは、夢を呟いた彼女の声色に、どこか翳りを感じたからだと思う。
一定の品質で案件を納める高いプロ意識。その心内にひっそりと仕舞われたこれからの夢。
かっこいいな。やりたいこととやれること。書きたいことと求められること。専業でも兼業でも、仕事でも趣味でも、書く人はいつも心に折り合いをつけている。
私にも、書いたものを消した過去がいくつもある。下手さに打ちのめされて、読まれないと拗ねて、架空上の反応に怯えて。
それは総じて、自分の文章を信じていなかったということだ。
書くのはいつも怖いし、少しだけ傷つく。もっと上手く形にしたかった。言葉にならなかった想いはやがて立ち消え、バラバラとした断片だけが所在なく手元に残ったまま。
でも、再び「続ける」を選ぶ。明るさと寂しさは両立するし、幸福と孤独も共存しえる。まるで両面折り紙みたいな感情を、どんなふうに言葉や文章へと変換できるだろう。そうやって頭を悩ませる時間は、やっぱりかけがえなく楽しくて。
今年は、もっと自分の文章を信じてみたいと思う。正確に言えば、信じる力を身に付けたい。それは、私にとって素直に夢をみることにもつながっていく。
自分の文章を信じるということは、自分の視点や眼差しを、感性を、書いてきた時間を、積み重ねた知識や経験を、ひいては自分自身や一緒にいてくれる人を信じることでもある。
真っ直ぐ向き合う怖さは付き纏う。だからこそ意識の手綱を持ちたい。
ふだんの仕事や生活、人間関係を抑圧と呼ぶのはいささか乱暴だけれど、折り合いの中でしか生まれない美学は人の心へ深く刻まれる。
そんな文章に出会えるタイムラインを、私は今年もたびたび開く。そしてまた、勝手に癒されたり励まされたり気付かされたりする。
放てないなら、置くだけでいい。一年後の景色を楽しみに。日々の隙間から溢れ落る言葉たちを、たくさん書きたいし、たくさん読みたい。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。