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キミの涙が教えてくれたこと

もう私はこんな涙を流さないのだろうか。つぎつぎと溢れ出す滴をぬぐいながら、ぼんやりとそう思った。


長男がお絵描きや絵本作りにハマっている。口癖は「ママ、紙ちょーだい!」。画用紙に、ノートに、チラシの裏に、自分と弟が好きなキャラクターや空想の世界を嬉々と描く。

絵やイラストの才能を早々に諦めた私には、その自由な発想と作風すべてが輝かしい。4歳の手から生み出される宝物。
溢れすぎて収拾つかないし、壁の至るところに貼りまくるし、我が家のリビングはカオスに近付く一方なのだが、それはそれで愛おしい光景である。

ある日も同じだった。

のんびりモードの週末。子どもたちが穏やかに遊んでいたので、その場を夫に任せて片付けのために2階にへ上がった。
30分ほどかけて一通り済ませ、再びリビングへ戻る。すると長男と夫がテーブルに座ってお絵描きをしていた。

おっ、微笑ましいなぁ。

そう思って二人を見ていたら、夫は困ったような顔でそっと私に目配せをした。
そのまま長男に目を移すと、ペンを持ったまま紙を見つめて俯いている。なんか様子がおかしい。

「長男くん、どうかした?」

努めてさりげなく声をかけた。
すると、それまで必死に堪えていたのだろう。
息子はハッと顔を上げて私を見たと思ったらすぐに口をギュッと結び、それを一気に解くかのごとく顔をぐしゃぐしゃに崩した。

あらららら。

大粒の涙がぽろぽろとほっぺたに流れ落ちた。私はびっくりしながらもどこか冷静に「透明なガラス玉みたいだなぁ…」と思った。それぐらい繊細で、とてもきれいだったのだ。

しばらく眺めていると、息子がワッと泣き叫んだ。

「ぼく、描けない〜!!!!」

そう言って、またぽろぽろぽろぽろ涙を流した。

話を聞けば、夫とパソコンの画面を見ながら大好きなアイアンマンの絵を一緒に描いていたという。
すると、だんだん様子がおかしくなっていったそうだ。


(左が息子、右がパパ)

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あぁ、上手く描けずに怒っているのか。

長男は昔から「やりたい」→「できない」に強いフラストレーションを抱えるタイプである。幼い子どもの多くはそんな時期を通過するはずだが、息子はだいぶ激しいほうだと思う。

おもちゃ箱のふたが開かなくてイライラしたり、
積み木が重ねられずひっくり返って後頭部を打ったり、

一歳になる前から強烈性は発揮していたので、正直「おや、また始まった」ぐらいに思っていた。

止まらない涙でひくひく言いながら、息子が続けて言う。

「パパみたいに!描けない〜!!!」


そこで、ようやく涙の本質を理解した。

そうか、パパの絵と自分の絵を比べて、悔しいのだ。二人は同じものを描くはずだった。でもどうやら全然ちがうと悟った。出来栄えの差を、その事実を目の当たりにした。

ただ上手くいかないなんて単純な憤りではない。いま彼は、他人と比べたときの歯痒さや不甲斐なさを抱えて泣いている。

複雑になりつつある感情。彼には解きかたがまだ分からない。
その心や姿がとても健気に見えて、私はテーブルに近寄り、長男を膝の上にのせて座った。
抱き心地は赤ちゃんの頃とずいぶんちがう。体重は20キロ近くなり、服のサイズは110になった。でも、この世界で生きて、たった4年しか経っていない。


ママは長男くんの絵が好きだよ。
ほら、ちゃんとアイアンマンの色に塗れてる。


息子は納得いかない様子でブンブン頭を横に振った。
「できない……」

慰めようとか取り繕うとか邪念は一切なく、するすると言葉が出てくる。


パパみたいに描けなくても大丈夫。
長男くんは長男くんの絵を描けばいい。
どうしてもパパと同じがよかったら
いっぱい練習したらいいかもね?
きっと少しずつできるようになる。
でも、楽しく描くのがいちばんだからさ。
それはすごく大事なことなんだよ。

そう話しかけながら、あまりの既視感に言葉が詰まった。


これは私にとっての「書くこと」と同じだ…。
誰かと比べて出来ないと嘆く私自身にも当てはまる言葉なんだ…。


そう気付いたとき、まぶたがじわりと熱くなった。
改めて息子が流す涙の芯に触れられた気がした。


うん、悔しいよね、悲しいよね。
痛いほどわかるよ。


自分一人の世界だったらきっと知らないままだった。プリスクールに通っていても同じ年頃の子が描く絵はそう大きく変わらないだろう。
だから息子は今日パパと絵を並べて思い知った。
自分より上手いと感じる絵を描く人がいること。まだまだ自分の力では描けないものがいっぱいあること。


いつかの私と同じように。


その日、息子は二度と色鉛筆やクレヨンを手に取らなかった。


いつも、ずっと、長男の涙を持て余していた。
なぜそんなに泣くの、なにが気に入らないの。わからなすぎて途方に暮れた日は数えきれないほどある。

ところがこの時はちがった。私も、同じ涙を流したことがある。そう思った。自分の足りなさに泣けてくる。どこにもぶつけようがない苛立ちや悲しみも含めて。


彼の涙が心のうんと奥まで響いた理由は、そういう共感と、実はもう一つあった。

「悔しい」と素直に泣ける姿がとても眩しかったのだ。


大人になるということは、何かを感じなくなるのではなく、感じないフリが上手になるだけではないか。
10年長く生きれば、10年分の傷を負う。過去の傷口は薄れさえすれど消えはしない。どんどん積み重なっていく。しかし人生は長い。いちいち傷ついていられない。だから見ない知らないフリをする。

年齢を重ねれば重ねるほど、心に痛手を作りかねない「悔しい」を封じ込めてしまう。

そうして、言い聞かせる。
自分らしくあればいい。
心地よくあればいい。
もちろん、その気持ちは嘘なんかじゃない。

だったらどうして、長男の涙を「羨ましい」と感じたんだろう。


今年こそ、自分に許しを与えたいと思っている。

周りがどうだとか、今の私がどうだとか、そんなものは関係なく、書きたいものを見つめたいし、書きたい。それはたぶん、書けるものとはちがう。だから歯痒さや不甲斐なさにたくさん泣くかもしれない。

この年齢になれば、涙を避けながら生きていく選択肢だって知恵だって持っている。

でも、私は描きたいものを思うように描けず「悔しい」って泣ける息子みたいになりたい。大好きなものを大好きな絵で表現する彼みたいになりたい。


自分の絵を描くことも、楽しく描くことも大事だけど、あの子の悔しい気持ちをもっと受けとめたらよかった。ママと一緒にがんばろうって言えればよかった。
明日はまた、お気に入りの色鉛筆やクレヨンを手に取りますように。君の一番のファンがここにいる。だから、できることならば。そう思いながら夜を明かした。


翌日、そんな母の反省や心配や決意なんてまるで知る由もなく。
当の長男は一晩寝るときれいサッパリ忘れたようで、キッチンのところへ来て「ママ、紙ちょーだい!」と元気満々に言った。

そうだ、「好き」は何よりも強い。これもキミの涙が教えてくれたこと。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。