その悲しみは、無知から来ていないだろうか
学生時代、どの科目であっても授業で内容を理解するのが苦手でした。
勉強そのものは苦ではなく、一人で教科書と向き合って勉強すればなんとか分かることが多かったのですが、授業には集中できず、頭に入ってこない。家に帰ってから、結局、一人で理解するところから始めるので、他の人よりも時間をかけないと人並みになれないことに悩んでいました。こういう方、いらっしゃいませんでしたか。
当然、社会人になってもこの要領の悪さは変わりません。
優秀な同期とあまりにも理解のスピードに差があって、それは当然成果にも直結していて、焦る一方でした。でも真似してもうまくいかないんです。というか、真似ができないんですよね。
優秀すぎるあの子と私の何が違うのか観察したり、上司や先輩の話を聞いてみると、どうやらそもそも理解の仕方が違うようだ、と気づきます。
「Aをやってみようか」と言われたら、やってみる彼女。
「Aをやってみようか」と言われても、「なぜ?どういうこと?」となる私。(新人なんてどうせ何もできないんだからやれよ、って感じですが)
A→B→C→D→E、と物事が進む時に、順を追って理解ができる彼女。
対して、終着点であるEまでの流れがわかっていないと方向性がわからず、歩き出せない私。
悲しいですが、どちらが早期に立ち上がれるかは明白ですね。
当然早々に実践を積める彼女です。
やはり仕事において最初は量が圧倒的に大事なので、彼女こそが勝ちパターンです。できないくせにいちいち立ち止まる私が彼女に追いつくのは相当難しいです。悲しいかな、永遠に回らないPDCA。
知りたくて仕方なかった彼女との差が分かってとってもしっくりきたものの、その差が到底変えられない脳味噌のつくりみたいなもので、本当に絶望しました。笑
学生時代に抱いていた「みんなと同じにできない」という悲しみの復活と「私という人間は勝ちパターンと程遠い」という気づきに泣きました。
彼女にはなれないと悟りながら、相手にされてないと分かりながら、くる日もくる日も図々しく比較をしながら、縮まらない差にげんなりしながら、仕事は続けています。
ただ最近、下記の記事をきっかけに私の脳味噌が劣っているのか、ということを考えるようになったのです。
こちらの記事で紹介されていた認知特性に関する本も読んでみました。
超絶ざっくりまとめると、目や耳から入る情報をどう処理しているのかは人によって違うよね、それによって活かし方や強みも変わるよね、という内容です。(本当はこんな浅い話ではないです…。まとめ方が下手ですみません。とっても勉強になります…。)
これを読んで、「私という人間は勝ちパターンと程遠い」という気づきはやはり今の仕事においては間違いではないかもしれない、でも、私の脳は欠陥品なわけではないかもよ?と思えるようになりました。
私は何も知らなかっただけなのかもしれない、知ろうともせずに勝手に悲しんでいただけなのかも、と。
ずっと抱いているコンプレックスや劣等感、そして悲しみは、本当に真正面から悲しむべきことなのだろうか。
日々の悲しい出来事も、本当にその一瞬だけを切り取って判断して良いのだろうか。
単なる結果や表層的なものだけを見て勝手に悲しんで終わりにしてしまっていること、きちんと冷静に向き合ってみたら本当は悲しまずに済むことって私たちにたくさんあるのかもしれない、と授業中にウトウトしている私から教わった気分です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?