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名前にこだわり過ぎるのもどうかと思う

フランス語で「バゲット」とは「(手に持てる程度の)棒状のもの」を表す言葉で、棒状のもなら何でもバゲットと呼ぶ。木の枝だって魔法の杖だって、箸だってバゲットだ。

フランスのパン屋では、長い棒状のパンのことをバゲットと言う。一般的なバゲットだけでなく、全粒粉(コンプレ)を使ったバゲットもあれば田舎(カンパーニュ)パンの生地を細長く仕上げたバゲットもある。

パン屋によっては商品の名前にこだわりがあったり個性を出すところもあるけれど、一般的には棒状であれば皆バゲット。棒状の穀物(セレアル)入りパンが欲しければ、バゲット・セレアルで通じるし、なんなら名前になんてこだわらずに、指さし方式で「そのパンは何?」と聞いて買えばいい。

先日、数か月ぶりに訪れたパン屋の棚に、通常サイズの2/3ほどの長さの細くて短いバゲットが置いてあった。ハーフサイズほど短くはないけれど、通常のものよりは明らかにひと回り以上小さい。

気になったので尋ねてみると、「トラディッション」だと言う。

トラディッションとは「伝統」と言う意味で、パン職人が伝統的製法で作ったバゲット(棒状のパン)のこと。

以前その店で買ったバゲットはもっと太くて長かった。多分何かの理由があって、バゲットのレシピをその店なりの「トラディッション」に変えたのであろう。

そういえばもう何年も前のことになる。パリでよく通っていたパン屋にも「トラディッション」と言う名のバゲットが置いてあった。通常のバゲットよりもほんの少し短めで、両端が細く尖ったパンだった。

そしてそのパン屋にはトラディッションとは別に、標準的な先っちょが丸くて長いバゲットも置いてあった。値段はトラディッションの方がちょっとだけ、十数円ほど高い。

標準的なバゲットとの詳しい違いやトラディッションと名乗る為の条件やルールがあるのかないのかは分からないけど、トラディッションの方が歯ごたえのあるモチモチとした食感で、強い小麦の香りがして食べ応えがあるから好きでよく買っていたのを覚えている。

安いバゲットと差別化するために先っちょを尖らせたその「トラディッション」は、職人が伝統的製法で手作りしてまっせ!と言う、店のプライドとアピールを含んだ売れ筋の商品だった。

そんなバゲット・トラディッションと久々に再会した数日後、私はまたパン屋へ行った。

店に入ると大きなガラスケースがあり、ケーキやキッシュやサンドイッチなどが豊富に取り揃えられている。レジ横の台にはクロワッサンやパン・オ・ショコラなどの甘い系の菓子パンが山積みにされていて、後ろの棚には5-6種類ほどの食事やチーズと共に食べる用のパンが並べられていた。

その中で棒状のパンは1種類のみ。他は日持ちのする丸いパンばかり。店中を見渡しても細長いパンはその1種類しか置いていない。

私の前に並んでいたおばさんたち2人が立て続けにバゲットを頼み、私もバゲットを注文した。

会計に時間が掛かる人がいたので、私たちが注文したバゲットはレジ横に2本3本と並べて置かれていく。すると私の後ろにいたおじさんが、「トラディッションをくれ」と注文した。

お店の人は迷わず私たちが注文したバゲットと同じものをレジ横の台に並べた。だってその店では棒状のパンは1種類のみ。トラディッションはバゲットであり、バゲットはトラディッションなのだ。

お会計が進み私が支払いを終えると、後ろのおじさんが何度も「俺のはトラディッションだ。トラディッションをくれ」と言い張っている。

忙しいお店の人は私のと同じバゲットを「これがトラディッションです」と言っておじさんに手渡した。

そう言われてもどうも納得できない様子のおじさん。何やらブツブツ言いながら、バゲット・トラディッションを抱えて去って行った。

種類が豊富なパン屋なら標準的なバゲットとトラディッションの両方を置いてあることもあるだろう。でも最近は小麦の高騰などの影響でパンの種類を減らす店が多くなっている。

トラディッションしか置いてないパン屋でバゲットを注文するとトラディッションが渡される。棒状のパン(バゲット)がその1種類しかないのだから当然のことだ。

「バゲット」を「トラディッション」よりも安いパンだと思い込んでいる人には多分、そのことが理解し難いのだろう。

バゲットはバゲット。トラディッションだろうがセレアルだろうが、棒状であればバゲットなのだ。

専門家に言わせると多分、色々と細かい定義があるのだろうけど一般人にそんな知識はない。美味しいパンを食べたければ店の人に聞くのが一番。よく知らないのに知ったかぶりをしても、なんの得にもならない。

トラディッションを注文したのにバゲットを注文した人と同じものを渡されたあのおじさんは、名前にこだわり過ぎたせいでモヤモヤとした気持ちを抱えてしまったのだ。

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