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ドイツ・ブンデスリーガ創設の歴史とオリジナル16 FOKUS Bundesliga!!! #8


本日、2024年7月28日、サッカーのドイツ・ブンデスリーガが創設されてから62年目を迎えました。そのことを記念して、ブンデスリーガ最初のシーズンである1963/64シーズンを紹介します。

前書き

ドイツは元来、保守的な国である。決して「右翼的」だと言っているのではない。私が言いたいのは、ドイツは「体制を変革する」よりも「体制を長く保つ」ことを重視する国だということだ。

例えば、第二次世界大戦後にドイツで首相になった人物はわずか9人である。サッカーに関して言えば、1926年から現在までにドイツ代表監督を務めた人物は12人しかいない。

そんなドイツにとって、 1960年代前半は変革の時期であった。1963年、15年間首相を務めたコンラート・アデナウアー氏からルートヴィヒ・エアハルト氏へと首相が交代したのだ。

また、サッカー界でも大きな変革があった。1962年、ドイツサッカー連盟(DFB)の会長職が、ペコ・パウヴェンス氏からヘルマン・ゲスマン氏へと移り、1964年にはドイツ代表監督の座が名将ゼップ・ヘルベルガー氏から新たな名将であるヘルムート・シェーン氏へと受け継がれた。

1960年代前半の西ドイツに変革の時期が訪れたのは、西ドイツが1950年代に奇跡的な復興を遂げ、経済が安定したことで、新たな価値観が求められたからなのかもしれない。ドイツ・ブンデスリーガが誕生したのは、そんな「変革の時期」の出来事である。

ドイツ・ブンデスリーガの創設

・ブンデスリーガが生まれた日

1962728日、ドルトムントに位置するヴェストファーレンハレン(会議センター)でドイツサッカー連盟の会議が行われた。この会議の議題の1つに「西ドイツ国内に統一のプロサッカーリーグを創設するか否か」というものがあった。同会議で行われた129人の代表者の投票の結果、103人の賛成で「ドイツ・ブンデスリーガ」の創設が決まる。

また、同会議でDFBの会長職が、13年務めたペコ・パウヴェンス氏からヘルマン・ゲスマン氏へと移ることが発表された。ゲスマン新会長を含む6人の委員会が1年後のリーグ開幕に向けて活動を始めることとなる。

・ブンデスリーガが創設された理由

西ドイツに統一のプロリーグの創設が求められる理由は大きく2つあった。1つ目の理由は5つに分かれた地域リーグの競争力があまり高くなかったことだ。1946年から1963年にかけて、西ドイツには地域ごとに5つに分かれた「オーバーリーガ」が存在した。

北部西部南西部南部西ベルリンに分かれたリーグ戦は強豪クラブやスター選手が分散する形となり、各リーグの競争のレベルは高くなかった。シーズンの終わりに行われた5つのリーグの優勝チームと準優勝チーム同士で争う「ドイツサッカー選手権」が数少ない強豪同士の対戦する機会となった。

2つ目の理由はアマチュアからの脱却の必要性があったことだ。当時のドイツサッカー界では伝統が重視され、トップリーグの選手でもアマチュアであるべきとされた。しかし国外の有力なクラブからドイツ人選手たちにオファーが来るようになる。ドイツ代表が1954年のスイス・ワールドカップを制したことからもわかるように、当時のドイツにはすでに多くのスター選手がいた。彼らスター選手に触手が伸びるのは必然だ。

例えば、1960年代のスーパースターであるウーヴェ・ゼーラー氏も、アディダス社の働きかけがなければ、国外へ移籍していたのではないかとされているし、カール=ハインツ・シュネリンガー氏は実際にイタリアのクラブに引き抜かれている。

・始まりの16クラブ

2つの理由を含め、様々な要因から西ドイツ国内に統一のプロサッカーリーグ創設が求められたのだ。1年後のリーグ創設に向け、ゲスマン新会長を含む6人の委員会が活動を始めた。のちにゲスマン氏の後任となるヘルマン・ノイベルガー氏やFCケルンの創設者かつ初代会長でもあるフランツ・クレマー氏を含む委員会メンバーにとっての最大の仕事はブンデスリーガ最初のシーズンに参加するクラブを選出することだった。応募のあった46のクラブから16クラブを選出しなければならなかったのだ。

最終的には、全会一致の投票により、北部から3クラブ、南西部から2クラブ、西部と南部から5クラブ、西ベルリンから1クラブが1963/64シーズンのブンデスリーガの創設メンバーとなることが決定された。以下が選出された16クラブである。

オーバーリーガ・ノルド(北部リーグ)
ハンブルガーSV★
ヴェルダー・ブレーメン
アイントラハト・ブラウンシュヴァイク

オーバーリーガ・ウェスト(西部リーグ)
1.FCケルン★
ボルシア・ドルトムント
MSVデュイスブルク
プロイセン・ミュンスター
シャルケ04

オーバーリーガ・ズートウェスト(南西部リーグ)
1.FCカイザースラウテルン★
1.FCザールブリュッケン

オーバーリーガ・ズート(南部リーグ)
1860ミュンヘン★
1.FCニュルンベルク
アイントラハト・フランクフルト
カールスルーエSC
VfBシュツットガルト

フェルトラクスリーガ・ベルリン(西ベルリン都市リーグ)
ヘルタBSC★

の付いているクラブは1962/63シーズンに各リーグで優勝したクラブ。

各リーグの1962/63シーズンの優勝クラブは、過去10年間の成績に基づく複雑な順位表に関係なく、ブンデスリーガへの出場が保証された。また、1 つの都市につき 1 つのクラブしか出場できないという規則もあった。

そのため、過去の成績ではヘルタより優れていたタスマニア・ベルリンや1860ミュンヘンと同じくミュンヘンをホームタウンとするバイエルン・ミュンヘンがブンデスリーガに参加できなかったことはよく知られる。参加クラブが決まったことで、ドイツ・ブンデスリーガが開幕を迎えることとなる。

1963/64シーズンのブンデスリーガ

・ドイツ・ブンデスリーガ開幕

1963824日、ドイツ・ブンデスリーガが開幕を迎えた。午後4時に一斉に試合が開始されると、わずか58秒後にヴェーザー・シュタディオンでリーグ最初の得点が生まれることとなる。得点を挙げたのはドルトムントのティモ・コニエツカ選手だった。

あまりにも早い得点だったために、カメラマンが準備できておらず、映像が残っていないのは笑い話である。1963/64シーズンのブンデスリーガ第1節で行われた8試合で決まったゴール数は22。欧州屈指の得点が決まるリーグとして、花々しい幕開けとなった。

・数多くのスター選手たち

1963/64シーズンのブンデスリーガは数多くのスター選手がプレーした。例えば、「ベルンの奇跡」で知られる1954年ワールドカップ決勝で得点した2人のストライカー、ヘルムート・ラーン選手(デュイスブルク)とマックス・モーロック選手(ニュルンベルク)の名前が挙がるだろう。両選手とも1963/64シーズンのブンデスリーガで8ゴールを挙げた。

また1966年のワールドカップで決勝に進出するドイツ代表のメンバーであったハンス・ティルコフスキー(ドルトムント)やローター・エメリッヒ(ドルトムント)、ヴィリー・シュルツ(シャルケ)などもリーグを代表する選手だった。しかし最もスター選手が集まったクラブはFCケルンだった。

・1963/64シーズンの王者・FCケルン

1963/64シーズンのFCケルンは、2シーズン前にズラトコ・チャイコフスキー監督のもとでドイツサッカー選手権で優勝したメンバーを中心に構成されていた。なかでも中心的存在であったのが、1954年のワールドカップ優勝メンバーであり、1963年にはドイツの最優秀選手賞を受賞したハンス・シェーファーと当時弱冠20歳であったヴォルフガング・オヴェラートだった。

ゲオルグ・クノップフル監督率いるFCケルンはその攻撃的なスタイルでブンデスリーガを席巻した。フランクフルトザールブリュッケンとの直接対決にこそ敗北したものの、17勝11分2敗、シーズン78得点を挙げる圧倒的なチャンピオンだった。

以下、参照したWEBサイト

Bundesliga 公式サイト

Transfermarkt


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