自己受容について

自己受容は課題、と書こうとしたけれど、なんだか自分に余計なタスクを強いているような気がして、やめた。

とはいえ、自分をありのまま受け入れられる時間が、このまま増えていくといいと思っている。また受け身な言い方という気もするけれど、これに至っては、自然とそうなって行きたいという「意志」でもあるので、良し。

自分の過去を俯瞰すると、ありのままの自分を認められないというのは、ほぼほぼ生育環境によるものだとわかる。
「◯◯をしない子は、いらない」
「◯◯(食べられないもの)を食べなければ、うちの子じゃない」
「言う事聞かないなら、今すぐ出て行け」
他に拠るところのない小さな子供にこう言う親は、ちっぽけな支配欲を満足させていたのだろう。あまりにくだらな過ぎて、こんなにつまらない人間に振り回されていたことを思うと、何ともやるせない。

三つ子の魂と言うけれど、深層心理に植え付けられた不安は、コンテクストを忘れても、身体に刻まれる。

本当の心を告げると否定され、攻撃される。
見捨てないことと引き換えに、やりたくない事をやらされる。

従順で真面目で警戒心が強い性格が災い?し、本心をなきものとし、相手が自分に求める役割をさも楽しそうに演じる、という生き方を続けてしまった。

使わない筋肉は衰えるというけれど、思考も同じかもしれない。
自発的に思いを発信するというのは、トレーニングなのだと思う。
生涯通してそれを始められなかった私は、トラウマケアが終わっても、一人になることが怖くなくなっても、まだ自分の希望や欲望がわからない。本当の自分と繋がった状態で外の世界と関わっていくというのが、できていない。 

自分と一緒に、私だけの世界の中で、胎児のように丸まりながら自分を守って生きることが、一番簡単なオプションなのだろうけれど、私はもっと自分だけの目で世界を見たいし、世界や人に自分を映した時の声を聞いてみたいと思っている。

私の心の声、拒絶する時の声はだいぶ大きくなったけれど、それ以外の時は、聞くのが不可能な程、小さい。もう一度言って欲しいと耳を澄ますと、すっかり静まり返ってしまう。

私がやっている写真に対する姿勢ついて。最近は、自己受容に近付いている気もするけれど、諦めとの区別がつかない。両者は、紙一重なのかもしれない。

過去、「自分の写真はゴミだし、良い写真なんて一枚も撮れた試しがない。才能なんて1ミリもない。どうして続けているのか不明。」と言っていて、写真展のたびに、不安と自己否定で真っ青になっていた。
今準備している次の写真展については、
「今出来るものを出して、また次も頑張ります、で良い事にしました。」と思い話すと、暗室の先生の表情は柔らかく肯定的だった。

多作で傑出したアーティストは、愛着障害がけっこうな割合でいると聞く。自分はまだまだなのだと、寝食の時間を惜しんで、作品を作る。最終的におかしくなってしまう人も多い。

客観的に見て、私には飛び抜けた才能も根気もないけれど、彼らを突き動かすものが何であるかは、理解できる。

手芸小物を「アート作品」と呼び、雑貨屋さんの店先にコーナーを作ることを「個展」と呼ぶ人を、私はかつて、見下すように見ていた。今では少し変わって、それが幸せなことのように感じる。本人はとても幸せで、その小物たちを喜んで買う人がいて。それは良い人生の一つの形だと思える。

人生の全てをかけて作品を研ぎ澄ますアーティストについて、根源が純粋な創作欲であれ、愛着トラウマであれ、自分をそこに投じる覚悟もまた、別の形の自己受容なのでは、と考える。

要は選択で、さて自分はどうしたいのか。