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不安障害、パニック障害だけじゃない! 初めの一歩が踏み出せない人のための、本当にやりたいチャレンジができる理由

「自分は不安障害だから夢をあきらめるしかない」「パニック障害で発作が怖いし、電車にも乗り物にも乗れない自分なんてどうせ何もできない」と、自分から望む人生への第一歩をあきらめてはいませんか?または、頭でいろんな不安や心配がむくむくと黒雲のように広がって、やりたいチャレンジができず落ち込んだりしていませんか?

不安障害だろうが、パニック障害だろうが、たとえ「不安」という鎖につながれて身動きが取れない絶望の中にいたとしても、本当にやりたいことにチャレンジすべき時が来たらわかるのです。

それを私に教えてくださった方がいました。今回は序章として、半信半疑でありながらも私を支え続けてくれたその言葉。そしてそれを教えてくださった方とのお話をお伝えしたいと思います。

不安障害やパニック障害で行動を自ずと制限している方だけではなく、やってみたいことはあるけれど、チャレンジするための一歩がなかなか踏み出せない方、自分には無理だとあきらめてしまっている方、是非最後まで読んでみてください。それで悩む必要はない、自分にもチャレンジする日が来るんだって、きっとわかっていただけるはずです。

不安障害、パニック障害を抱えての離婚

20年前のこと。私は不安障害とパニック障害を抱えながら、東京で結婚生活を送っていました。依存関係であった夫との関係に終止符を打つため、離婚という形で東京から、実家のある四国に戻ることとなりました。

家族だった人と傷つけあい離婚という選択に至ったことで、パニックの発作とはまた違う、深くえぐられるような心の痛みとして、実家に戻ってからもずっと苦しみ続けていました。

救いを求めた場所での心の恩人との出会い

そのような状況の中、ふと隣町にプロテスタントの教会があることを思い出しました。そこに行けば救われるのではないか。私にとって、キリスト教は映画やドラマの中だけの未知の宗教でしたが、「教会」は困った人を助けてくださるという、これまた映画やドラマの中のイメージによるものでした。

「車を運転する恐怖も隣町なら行ける。教会に行けば何かが変わるかもしれない。せめて人を愛するってどういうことなのかを学べるかもしれない。どうかお願いします。助けてください!」とまさに神頼み。そしてその願いは実際間違っていませんでした。

教会に思い切って連絡すると、聖書の勉強会に加えていただけることとなりました。入信の意思がなくとも、聖書を学ぶことを快く受け入れてくださったのです。また何度か参加しているうちに、日曜日の礼拝やそのあとのごはん会にも参加するようになり、遠慮しながらも楽しみな時間となりました。

お年寄りから小さいお子さんまで、20人ほどの信者さんも一緒にテーブルを囲むごはん会。奥の台所で手作りした季節の野菜の煮物や炊き込みご飯のような家庭のごはんを、和気あいあいと大勢でいただくのです。牧師先生も礼拝の時の詰襟からカラーをとって、心から寛がれている様子でした。

HSP気質の私はその慣れ親しんだ者同士の団らん中に、どっぷりつかることはできなかったけれど、決して居心地の悪い場所ではありませんでした。牧師先生を中心とするこの場所での交流によって、私の心の痛みは、その間すこし和らいだのは間違いありませんでしたから。

牧師先生の人となり

私を迎え入れてくださった教会の牧師先生は、当時50代後半だったと思います。そして同じく牧師であり看護師で家計を支えている肝っ玉の奥様とおばあちゃんやお子さんとで、教会の一角を住まいとしておられました。絵を描いたりギターを弾いたり川岸に土地を買い手作りの瞑想小屋を建てようとしたり、思慮深さと少年の心を持ち、生き方に芯が通った人望の厚い方でした。

この方とこうして出会っていなければ、私はまだ何も見つけられずにいたかもしれません。人との出会は大切にしたいとつくづく思います。

「何かをしたい」ではなく、「これがしたい」という思い

さて、私の置かれている状況は折に触れ牧師先生ご夫妻にお伝えしていたこともありましたが、それでも不安障害についてはなかなか話せないでいました。

そのようなある日、たまたま牧師先生と礼拝室でお話する機会ができ、私は思い切って長年の苦悩の胸の内を伝えることができました。
「不安なことばかり浮かんできて身動きが取れなくなります。旅行にも行けないし何かをしたいと思っても不安で手も足もでないのです。私はどうすればいいんでしょうか」と。

私からの思い悩んだ突然の問いに対して、牧師先生はこうおっしゃいました。
「どうしてもやりたいことというのは、❝それをしないでいるのなら死んだほうがましだ❞と思うくらいの気持ちになるものです。言い換えると、それをしないと居ても立っても居られない気持ちになる。そうでないのなら、そこまでやりたいわけではないのでしょう。だから不安でどうしても進めない挑戦を、無理にしようとしてしなくてもいいんですよ」

私は「気持ちはあるのにどうしたってできないんです!」と叫びたい気持ちを抑え、消化不良ぎみで家に帰りました。そして牧師先生がおっしゃたことを何度も何度も反芻しているうちに、大事なことが少しづつわかってきたのです。

フォーカスすべきは「やりたいこと」か? 「邪魔する不安」か?

私は、本当にやりたい目標があったわけではなく、「いつも不安が邪魔してるんです!嫌なんです!嫌いなんです不安が!わかってください!」と叫びたい。言ってみれば、不快な不安の存在を取り除くことが、やりたいことの一番になってしまっていたのです。

これは私がずいぶん後になって勉強したことですが「不安」は決してなくなりはしません。誰の心にもあって、私たちを「不安」の立場で守ってくれているんですから。「不安」を小さくするには、「本当にやりたいこと」「本当に好きなこと」「やりたいことへの志」を大きくしていくしかないんですよね。

無理に何かをしようとしなくても大丈夫

それから私の中の何かが変わりました。「無理して何かしなくても大丈夫。居ても立っても居られないくらいやりたいことができるまで、今のままでも大丈夫」そう思えるようになったのです。それまでの、情けなくなったり、人より劣っているように感じたりする思いもずいぶん減っていきました。半信半疑ながらも、焦ることなくじっと待っていられるようになったのです。

そして、その2年後にその日がついに私に訪れました。
「そうしなければ、居ても立っても居られない」って、牧師先生がおっしゃっていたのはこういう気持ちだったんだとわかる日がついにきたのです。

その気持ちに突き動かされて、私は再度東京での暮らしに向けて動き出すことになります

私にどういう出来事があったのかはまた次回にということで、今回は「初めの一歩が踏み出せない人のための、本当にやりたいチャレンジができる理由」の序章として、大事な軸となる考えがどうやってできたのかをお伝えしました。(今こうして振り返ってみると、教会を訪ねてみたのも、無意識でしたがそれに近い行動だったですね)

『教会でのもう一つの学び』

クリスマスが来た。

離婚して老親と実家に暮らす私には、できればこの世から消えてほしい、きついイベントに思えたが、この日は言わずもがな教会にとってはたいへん大事な日である。

私も招待していただき、多くの信者さんに混じり、初めて教会でのクリスマスを過ごすこととなった。

暗くなり、電気を落としキャンドルの光だけの幻想的な雰囲気の礼拝室。
正装に身を包んだ牧師先生の祈りの言葉にみんな静かに耳を傾ける。

その祈りは、世界中で苦しんでいる人々や大変な思いをしている仲間にむけられていた。一つひとつの祈り、すべてが世の人のための祈りだった。

これが本当のクリスマスだったんだ……。
同時に、最初に私が教会に求めたもう一つの学び「人を愛するってどういうことなのか」の答えのように思えた。

誰かのために祈る。大切な人のために心から祈る。
それが「愛」なんだ……。

おわりに

「どうしてもやりたいことというのは、❝それをしないでいるのなら死んだほうがましだ❞と思うくらいの気持ちになるものです。言い換えると、それをしないと居ても立っても居られない気持ちになる。そうでないのなら、そこまでやりたいわけではないのでしょう。だから不安でどうしても進めない挑戦を、無理にしようとしてしなくてもいいんですよ」

今でもこの「居ても立っても居られない気持ち」が、チャレンジをするかしないかを決める私の大きな指標となっています。
私にはそんな思いになる日は生涯訪れることはないとおもっていましたが、その後幾度もこの気持ちに従いチャレンジしてきました。
そしてそのチャレンジこそが、私を長い間苦しめてきた「不安」という鎖から私を解き放つ手段の一つとなっていったのは間違いありません。

無理しなくて大丈夫なのです。
あきらめなくて大丈夫なのです。
チャレンジできない自分を否定しなくていいのです。

あなたにもきっと本当に居ても立っても居られないほど、やりたいことができるから。





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