ディズニー新作『ストレンジ・ワールド』が描く”奇妙”なユートピア

ディズニーのオリジナルアニメ最新作『ストレンジ・ワールド/もうひとつの世界』。たしかワカンダフォーエバーと同時期の公開で、映画館で「これディズニーの新作か…」と横目に見た記憶がある。
宣伝もほとんどされていない印象だったが、実際に興行収入もふるわなかったようである。

その要因として言及されがちなのは、本作における過度なポリコレ配慮演出だ。主人公の妻が黒人とか、メインチームのメンバーが多国籍とか、それくらいは昨今のディズニーなら序の口である。むしろスタンダードな設定と言える。飼い犬に身体障害があることも些細な設定でしかない。(言うまでもなく、ディズニーの真骨頂である巧みな動物のモーションは犬に前足がないことを観客にすぐ忘れさせる。)

本作の"Woke"的な特徴として大きく取り上げられたのは、主人公の息子には男性の恋人がいること、つまりゲイという設定である。
これまで同性愛風のキャラクターはいたものの、ディズニー映画ではっきりとゲイカップルをメインキャラクターで描いたのは初めてである。
ここで明言しておきたいのは、筆者はLGBTQを作品内で描くこと「自体」に異論をもたない。男女カップルと同じように、同性愛カップルも作品内でごく自然に描かれることは何も問題ないし、実際そのような社会こそこれからのあるべき姿であることは間違いない。

その上で本作のゲイカップルという設定が、ストーリーテリング上どのように機能しているか(後述するように、実際には「していないのか」)をここでは考えてみたい。

ここで前提を確認すれば、本作はウォルト・ディズニー社100周年の記念作にあたる。
そのことはもちろんクリエイターによって十分意識されていて、本作は冒険家イェーガー・クレイドの活躍を歌にのせて紹介するシーンからはじまる。
ウォルト・ディズニーはアメリカの民話上の英雄をアニメーションや実写映画で取り上げることが多かったが、本作はこれをパロディー化している。

西部開拓時代の英雄に思いを馳せるウォルトは熱心な愛国者だった。ディズニーランドにある先住民族のアニマトロニクスは、そのような純粋な冒険への憧れによるものである。(もちろんポリコレ的には大変まずい。)
アメリカの愛国者であるウォルトから見れば西部開拓時代はゴールドラッシュに湧く輝かしいアメリカの歴史であるが、人種差別への問題意識を強固に持つようになった現代から見れば侵略と暴力の歴史でもある。冒険において探究心と暴力は裏表なのだ。

話を『ストレンジワールド』に戻せば、本作ではじめに提示される父と子の対立は、暴力/平和主義の構図にあてはまる。山の向こうに広がる未知の世界を目指す父と対照的に、未来の資源を発見した息子はその発展につとめる。無闇な開発ではなくサステナブルな資源活用。ここで一気にSDGsを推進してくるところも昨今のディズニーらしく抜け目がない。
しかしここで注目すべきは、冒険家の父/平和主義者(実際には臆病なだけなのだが)の息子という対立構造が、保守的な思想を持った先行世代(=ウォルト)/SDGsでポリコレな現行世代(=現在のディズニー社)に読み替えられる点である。このような解釈を許す本作の設定について、筆者は好感を持つ。ディズニーはウォルト的なもの、旧世代的な思想とどのような折り合いをつけようとするのか、興味深く見始めた。

しかし、である。物語が進むにつれ、父と子の対立構造は急にぼやける。それは孫、つまりZ世代まで登場するがゆえに、孫から見れば祖父も立派だしむしろ自分の父親は口うるさくてうざい、というような人類普遍の卑近な問題まで入り込むからである。
特に世代間の思想的対立はある短いシーンで完全に消え失せたことがわかる。それはZ世代の孫が祖父に恋人はいるのかとたずねられる場面である。孫はこう言う。

"Diazo. His name is Diazo".

つまり、相手が男性であることを明かしている。続けて"I really like him a lot".とも言っているので、祖父も聞き間違いようがないだろう。
これに対し冒険家で狩りや喧嘩を好むいかにも粗暴な祖父は、特に引っかかることもなく、相手を口説く方法を教えるのである。
自分の男の子の孫が同性愛者であることをなんのためらいもなく受け入れる祖父は、なんとリベラルな価値観の持ち主だろうか。それなのに息子が発見した環境に優しいエネルギー資源にはなんの興味も示さないというのは、かなり違和感を覚える。

上記はほんの一例で、本作はこのようにリアリティラインがおかしなことになっている設定が少なくない。主人公も文明に飛躍的発展をもたらす資源を発見したにも関わらず億万長者になるわけでもなく、いち農夫としてしか描かれていない。この世界には経済というものが働いていないのかと思うほど、貧富の差もない。金持ちもいなければ貧乏人もいないのである。
犯罪も起きないし、悪人もいない。環境との共存をゴールとしたゲームに興ずるZ世代は、悪者がゲームに登場しないことを望む。

冒険の途中で生き別れて以来25年ぶりに再会した父に対して、主人公は自分が発見した資源によって世界をユートピアに変えたと伝える。しかし観客である我々がスクリーン越しに見るこのユートピアは、ディズニーによって様々な配慮が凝らされ誰一人として不快にさせないよう設計された、きわめて奇妙なユートピアなのである。

もちろんそのようなユートピアは誰しも望んでいる。しかし現実にはおそらく何十年も、もしかしたら何百年経っても到達できないほど、平等で誰もが幸せなユートピアは遠い。
なぜなら、人間が生きうる限り、未知の世界を目指す冒険は試みられ、同時に侵略と暴力もまた発生するからである。

新しい世界を見たいという原動力は、ウォルトをはじめ数多くのクリエイターを触発してきたし、彼らの想像力によって私たちは心を豊かにしてきた。
人間が生きることには暴力や悪がともなう。しかしそれでも人間は生きてしまう。まだ見ぬ未知の世界を、新しい日を生きたいから。
このことを教えてくれたディズニーの精神が作品で示されることを、101年目以降にもまた期待したい。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?