趣味の人は趣味の人。その距離感が私にはちょうどいい。
趣味は人と人とを繋げる魔法の道具みたいなものだ。
写真が好き、中国語が好き、書くことが好き、ひとり旅が好き。
そんなことを口に出していると「私も好きです。」という共感の言葉とともに、いままで見知らぬ人だったどこかの誰かが同じ趣味を持つ人として目の前に姿を現す。
誰もが持っている自分という世界。その世界に入るための手段として「趣味」は手っ取り早いんだろう。
共通点があるだけで親近感が芽生える。初めましてなのにそんな感じがしない、あの感覚。
共通点が写真の人とはフォトウォークに行ったり写真を見せ合いっこしたり、中国語の人とは言語交流会や中国料理を食べにいったり、はたまた旅なら過去のひとり旅や旅行について語ったり。
自分の好きを「わかる。わかる。」と共感してくれて、自分自身も相手の話にうんうんと相槌を打ちながら過ごす時間はなんともいえない楽しさがある。この人ならコアなあの話題も知ってるだろう、たぶん共感してくれるだろう。そんな安心感さえある。
そんなふうにして繋がった人たちとは、趣味にまつわる目的があってそれを叶えるために会ったり連絡をとったりする。
そう、私にとって趣味の繋がりは一緒に楽しめる人探しみたいなもの。
だから趣味を通じて繋がった人とは「共通の趣味」以外で何かしたいなとは不思議と思わない。その欲望がないというか。
写真で繋がった人とカメラなしで会うとか、旅繋がりで仲良くなった人と旅とは全く関係ない話をするとか、なんかしっくりこない。
きっと私はそれを求めていないんだろう。
私にとって趣味の繋がりは一緒に楽しめる人探しみたいなもの。
この考えが根本にあるから、そう思うのかもしれない。ちょっぴりドライなのかもね。
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そういえば先日、高校の友人がこんな話をしていた。
「最近知り合った男性がいるんだけど、その人カフェ巡りが趣味だったの。だから彼とカフェにいくのすごく楽しいんだ。珈琲やデザートを美味しいねって共感しあえるから。」
その話にいいじゃんと相槌をうち、「その彼と今後どうなりたいとかあるの?」と聞いてみた。
うーんと少し時間を置いたのち、友人は次のように話した。
「共通の趣味があるのは嬉しいし、これからも一緒にカフェ巡りしたいなとは思うよ。でも、それ以上の関係になりたいとはなぜか思わないんだよね。趣味の繋がりと恋愛の人は別にしたいのかも。」
この返しに私は「分かる。めっちゃ分かる。」とひたすらに共感をしていたのを今でも覚えている。
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趣味は見知らぬ人同士をいとも簡単に繋げてしまう、人との出会いのきっかけになってくれる魔法みたいなものだ。「私も〇〇好きなんです。」は出会いのハードルをぐんと下げてくれる便利な言葉。相手の心のドアを開くお手伝いをしてくれる。
ただきっかけにはなるものの、その繋がりを深めようとするのはなかなか難しいのかもしれない。(人にもよると思うから、私の場合は。)
趣味の人は趣味の人。その距離感が私にはちょうどいい。
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こんなことを考えるきっかけを与えてくれたのは、このnoteで書いてきたような人たちとは正反対の位置にいる人。
共通の趣味はほぼ皆無、なのになぜか仲良し。一緒にいてラクだし、この人となら何をしてもどこに行っても楽しめる自信がある、そんな人。
趣味ではない繋がり。たまたま出会って、気づいたら仲良くなっていた。
趣味はきっかけにすぎない。そこでできた繋がりをどうするのかは個人の自由。仕事に恋愛に友情に、どこかへ持っていこうと思えばきっとできるんだろう。
とはいえ、私は趣味ではない人間味あふれる繋がりの方がなんとなく愛おしく思える。趣味は違ったとしても、内面的な何かがきっと似ているから一緒にいて楽しいんだろうね。ここが似ている!と一言で言い表せられないけどどこか奥の方で繋がっている、そんな関係性が愛おしい。
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写真はふだん撮らないし花畑に好んで行くようなタイプでもない、自然は好きだけどサーフィンとかキャンプとかアクティブな楽しみ方が好き。観光地巡りより、移動時間が好き。SNSはほぼやってない、文章を書くのは苦手だけど話すのはとってもうまい。外国との縁もない。
私たちかぶるところあるのかなってくらいに正反対な趣味を持つ彼。けどこの人と過ごす時間は時の流れを忘れるくらい楽しい。
同じ趣味はない、だからこそお互いに相手の『好き』を知ろうとする。知ってもらおうとする。やっぱり自分には合わないなと思う趣味ももちろんある。ただ彼のおかげで楽しみや趣味の範囲はぐっと広がった。
趣味ではない繋がり、彼との時間が楽しすぎてふとこんなことを考えてしまった日曜日の午後。
日々の楽しみに使わせていただきます!