書きたいことがなくても書き続けよ。
書きたいことなんてないのに、なんで「書きたい」という想いばかりが募るのだろう?「物語を書いていきたい」という願望が、いつも人生をかき乱す。書くことなんてただの趣味にして、求められている他の仕事に熱中すればいいのに、そういうわけにいかないんだ。別の仕事をやっていると、なにか自分が「嘘のこと」をやっているような気がしてきてしまう。嘘の自分を演じているように。
書いて生きられるなら他のすべてを犠牲にしていいと願っていた。それは学生の頃。就職活動もせず、ただひたすらノートに文字を書き連ねる。でもそれが、まとまりのある作品になることはなかった。綿矢りさ、金原ひとみ、朝井リョウ。同世代が次々にデビューし、華やかな賞を取っていく。私もその列に加わらねばと焦ってた。でも、私には書きたいものがなかった。
書きたいこともないのに小説家になりたいって、どういうこと?小説家というのは、もうどうしょうもなく書いてしまう人のことを言うんじゃないの?私は「作家先生」と呼ばれて讃えられたいだけなんじゃないの?
なんで書きたいと思い始めたのか?書くのが面白かったからだ。高校の情報処理室に駆け込んで、毎日昼休みの30分、マシンガンのようにキーボードを叩いていた。限られた30分をとにかく書く時間に充てたかったから早弁までして。何を書いていたのか?ありきたりな青春恋愛小説だ。でもその出来がどうとか関係なく、とにかくタイピングをしていたかった。頭の中で駆け巡る空想が活字に変換されていくのが面白くてしかたなかった。
高校は理系だった。大阪芸術大学の文学科へオープンキャンパスで訪れたとき、私はそのとき案内してくださった教授に自分の志望動機をこんなふうに伝えた。
「物語にすることで環境問題を社会に広く伝えたいんです」
理系から文転することを大人に納得させるための当たり障り無い動機だ。恰幅の良い体を砂色のスーツに包んだ先生は、さもおかしそうに笑った。
「あなたね、小説は何かを伝えるために書くものじゃないのよ」
伝えるために書くものじゃない?当時の私には意味がわからなかった。2023年の今なら、ちょっとわかる。啓蒙のための小説ならAIに書いてもらえばいい。何かを伝えるために書くんじゃない。誰かを救うために書くのでもない。だったらなぜ書くのだろう?書きたいから、でいいんじゃないか。
メンタルを壊して前職を辞め、これからの生き方を模索していたとき、エリザベス・ギルバートの著書『BIG MAGIC「夢中になる」ことからはじめよう。』に出逢った。彼女は大ベストセラー『食べて、祈って、恋をして』の作者だ。同作はジュリア・ロバーツ主演で映画化もされた。
『BIG MAGIC「夢中になる」ことからはじめよう。』がどのような本なのか。要約をChatGPTに書いてもらった。いやあChatGPT、なんて出来る子なの。
本書で彼女は、小説の「アイデア」がどのようにしてやってくるかを教えてくれている。彼女に言わせれば「アイデア」は、動物や植物、バクテリア、ウイルスなどと同じく、地球に住むひとつの生命体なのだ。アイデアには意識もあり、意思も備わっている。そして、ただひとつの衝動に突き動かされている。それは、「出現させてほしい」という衝動だ。表現する人間がいなければ、実体の無いアイデアは現実世界へ出現できない。だから常に、自分を出現させてくれる創作者を求めている。
それは、いつやってくるかわからない。事前に電話を掛けてくれるわけじゃない。こっちが忙しいときに急にチャイムを鳴らす。しかも、保険をかけるかのように、同時に複数の人間の元を訪れたりもする。創作者として生きたい人間にできることは、準備をしてアイデアの訪れを待つこと。唐突にアイデアがやってきても、YESと言えるように。それから、アイデアに「この人間は魅力的だ」と思ってもらえるように、自分を磨いておくこと。つまり、書きたいことなんてなくても、書きたいことが唐突にやってきたときに対処できるように、いつでも書き続けていること。
私は、書きたいことがない自分を恥じていた。書きたいことがないくせに作家になりたい?なんて自己顕示欲の強いヤツだ!そんなふうに自分を責めていた。自分をそうやっていじめる必要なんてなかったんだ。書きたいことがなくても、謙虚に書いてさえいればいい。そのとき書きたいと思ったことを、内容なんてないかもしれないけれど、ただただ書き続けて自分の言葉を磨いていればいい。
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