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Journal de confinement 私のコロナ自宅待機日記3

コロナ自宅待機9目。

ある種の言葉を言うことの容易さを考える。

「これめちゃくちゃ面白いの。なんでこれしないの?この面白さ伝わってほしい」

みたいなことの方がネット上では受け入れられやすい気がする。それがどんなに本当ではないとしても。

新聞の見出しが基本的にネガティブな印象になるように書かれているのと同じだろうと思う。

ネット検索で引っ掛かりやすい言葉を使う。

それが、文章を書いた本人や、その文章によって書かれていること、ないしは文章そのものの本質からどんなに離れていっても、SNS上において人間の感情に訴えらるように書き換えたほうが人の目に留まるのだろうと思う。

ちょっとヒットラーを思い出す。この間観た「英国王のスピーチ」でも吃音のジョージ六世が、ヒットラーの演説を見て「演説が上手いな」と呟くシーンがあった。

現代では既に、どのような表現が人間の感情に最も効率的に訴えるか、という問いへの解はアルゴリズムによって導き出されてしまう。

演劇をやっている身からすると、単純にかなり恐ろしい話だと思う。でも、単純に「恐ろしい」だけで済まないように、考えていかねばならないとは思うのだけれども。


ある種の言葉の、言い難さ、というのがある、ということが言いたかった。

言ったら絶対に怒られるだろうな、叩かれるだろうな、というようなこと。

小学校の卒業アルバムの最後にお決まりである(今もあるのかは分からない)卒業文集を思い出す。私は、小学校5年6年と散々イジメられた経験があるのだけれども、そんな嫌な思い出の先に、書きたいことと言ったら、同級生への恨みつらみぐらいしかなかった。そのまま書いて提出すると担任の先生に書き直すように言われた。むかつくけど書き直して、それでもまだ駄目だと言われた。「これは一生残るものなのよ、これが残ってもいいの?」との言葉を繰り返され、最終的に7回書き直すハメになった。7回目にして、「私の中学未来日記」というタイトルのもと、小学校というコンテクストから完璧に出ることによって、晴れ晴れとこの終わりそうもなかった戦争から抜け出たのである。

今になって思うが、やっぱり恨みつらみを残しておけばよかった、と思う。だって、小学校の卒業文集なんてそう頻繁に見るものでもないし、見ても誰も私の文章なんてわざわざ読むことはないだろう。おまけに、いじめた側にしてみれば、自分のした行為なんて、数年たっていじめの標的であった私に、当時流行っていたmixiで気楽に友達申請をして「久しぶりー、覚えてる?」とか送ってこれちゃう程度の経験にしか収まっていないのだから。私が卒業文集に、一応形として彼ら/彼女らが私を虐めた痕跡を残しておいてあげるぐらいした方がフェアだったと思う。


言い辛さ、って何だろうと思う。言い辛くても、真実じゃないか、と。言いやすいこと、受け入れやすいことは、オブラートに包まれすぎているか、本末転倒な内容を含んでるんじゃないか、と思う。

でも、人間というのは甘い生活を欲するので、そういう方を手に取る。

そりゃあ、私だってこの窮屈な生活の中、「まあ、仕方ないよね。ストレスフルだもん。」と甘いものに必要以上に手が伸びてしまうのだから、わからなくもない。

でも、それでも自分の限度は分かっているはずだけど。

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