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20年間勤めた講談社を退職しました。

はじめまして、ムラマツと申します。2022年末をもちまして株式会社 講談社を退職することとなりました。

2002年に講談社に入社して、週マガ→ライバル→ヤンマガ→コミックDAYS立ち上げ→モーニング…とマンガ編集畑だけを20年にわたり歩んできましたが、2023年1月からはサイバーエージェント社に入社し、CyberZ社の「Studio ZOON」でWEBTOONをがんばろうと思います。

この記事はいわゆる「退職エントリ」です。これを機会にこれまでのことをちゃんと振り返り、これからのことなんかもちょっと触れられたらと思います。今後、マンガ〜コンテンツ業界への新卒入社や転職を検討されている方の一助になれば幸いです。

入社まで

時計の針をめちゃくちゃ巻き戻して2001年。僕は第一志望である講談社の企業説明会的なものに参加し、講談社本館のでっかい体育館みたいな場所でリクルートスーツを着てパイプ椅子に座っていました。

質問タイムになり参加者の一人が「去年は何人受けて何人入社したのですか?」と質問したところ、7000人くらい受けて20人くらいが入社した、との回答。350人に1人。採用数も増えて今はもっと倍率低いと思いますが、当時はそんな感じでした。会場ギチギチに座っている参加者の縦と横の数を数えて、その場でかけたところ、ちょうど350人くらい。「こっから1人…ぜってー無理やんけ…」と思ったのを覚えています。それでも、まあやるしかないので、ガチガチの文学青年だった僕は「群像」志望でESを書き、筆記試験を経て、面接へと臨みました。

1次面接。三島由紀夫についてESにちょろっと触れていたのに激しく食いついた面接官が「君は三島の最後の決起は本気だったと思うかね!?」等と質問しまくってきました。「なんで三島由紀夫の話しか聞いてこんねん!?」と思いながらも問われるままに回答しているうちに面接が終了。他にも色々アピールしたいことがあったのに…と肩を落として帰りましたが、結果通りました。入社後にその面接官の方が、ちょうど三島由紀夫関連の書籍を企画中だったということを知りました。ラッキーでした。

2次面接。開始早々「好きな映画を、僕らがその映画を観てないものとして、紹介してもらえる?」と聞かれて、『続・夕陽のガンマン』と『ブロンコ・ビリー』の話を始めたら全然終わらなくて、ほぼほぼ面接時間を1人語りで使い切ってしまいました。今度こそ終わりか…と思いましたが通ってました。なんか好きなことを熱っぽく語れるやつなんだな、と思われたのかもしれません。

その後、グループディスカッションというやつがありました。学生が5人ずつくらいに分かれて与えられたテーマ(報道の自由について、だったと記憶してます)で議論するのですが、何を求められているのか全然わからずに、ひたすら議論を茶化して笑いをとっていたら通りました。これは本当になんだったのか今でも謎です。

そうこうしている内に最終面接。でっかい会議室に通されると、エヴァのゼーレのように配置された長机に役員の面々がいならび、奥には社長の姿が見えます(なんか逆光だった気がしますが、記憶の補正が入っているかもしれません)。「君は文芸志望らしいけど、全然違う部署、例えば女性誌などに配属されても大丈夫なの?」と聞かれて、反射的に「えっ…僕に太刀打ちできますかね?」と聞いたら笑いが起こって、質問していた役員の方が「いや、そういうことじゃなくてね…」と呆れていたのしか覚えてません。が、その結果 通りました。

というわけで、鷲巣並の剛運で入社に漕ぎ着けたのですが、振り返ってよかったかな、と思うのはESで実態以上に良く見せようとしてなかったので、質問に対して普段から自分が考えていることを自然に答えられたことかな、と思います。実際に当時の人事部の方にも「ムラマツはこれ以下でもこれ以上でもないのがいいところだ」と褒めて(?)いただきました。こういうこともあって「講談社に拾っていただいた!」という意識が非常に強かったわけですが、内定者の集まりで同期たちを見ると「当然っしょ」って感じの堂々とした人が多くて、え…すご…となった記憶があります。

入社後

研修中も一応「文芸志望」で通していたのですが、なんか途中から同期の間で「いや、ムラマツはマンガだろ」という空気があり、「マンガも好きだし、まあいっか」と思っていたら本当に週刊少年マガジン編集部に配属されました。

配属されて最初のネーム会議、ネームに登場する動物キャラについて「このムササビなんだけど…」「いやモモンガですね」「ムササビでしょ、これは!」「いやモモンガです」と40歳前後の編集長と副編集長が延々と口論しているのを見て、こいつはファンタスティックな会社に来たぞ!と胸踊ったのを覚えています。

実際に、マンガ編集は「異常に面白い仕事」でした。
・作品内容に予算的な制約がない! どんなデカい建物も漫画なら爆発させられる!
・編集長さえOKと言わせれば、スポンサーを探す必要もない!
・「こういうシーンはこの子NGなんですよ〜、脚本変えてください」みたいなことがない!
・事情が一切ない!
・とにかく面白ければいい!
……こんな自由な環境で作れて、しかも多くの人に届けられる仕事って世界を見渡してもなかなかないんじゃないでしょうか。その中でも特に講談社のマンガ編集部は部員の自由度が高いです。オススメです。

一方で、事情がないぶん言い訳もできないし、自分の対応ひとつで作品の良し悪しと目の前の作家さんの生活が変わってしまう、という強烈なプレッシャーもありました。「マガジンで今連載しているような面白い連載を立ち上げられるんだろうか?というか、そもそも連載立ち上げとかできるのか?」とかベッドの中でよく考えてました。

結果、2年目でなんとか初連載を立ち上げたのですが、そうなると次は「○万部売れるようなヒット作を立ち上げることはできるんだろうか?」という不安とプレッシャーに置き換わり…みたいな感じでフェーズごとにテーマは変わりつつも、ざっくり最初の10年は「自分は編集者として『いっぱし』になれるんだろうか?」と思いながら仕事をしていました。

入社10年目前後

そんなこんなで10年ほどの月日が経ち、ヤンマガへの異動が決定した時のこと。唐突なんですが「ヤンマガに異動したらなんかすごくやれそう感」がありました。

新入社員の時はネームを10回読んでも意見がまとまらず先輩に怒られていたのが、その頃には1回読むと問題ある箇所が見つかり、2回目にはその原因と修正方針が大体掴めて、3回目で具体的なアイデアとか伝え方を考えられるようになっていました。あと、企画の立て方とか連載ネームの気をつけるところとか、言語的にも非言語的にも「なんか掴めてきた感」がありました。狙いを狙い通りに出せる技術が身についてきているし、狙い自体も合ってきている感じがする。

冷静に考えると、1日に作家さんのネームを平均3〜5本は読む生活を10年続けているということは、計1万本ほどのネームに対して、面白いか面白くないか?それらの原因は何で、どう考え、どう修正し、どう伝えると良いか?というフィードバックを続けてきたわけで、そりゃさすがになんか掴めてきた感覚も出るだろう、と。外国語の習得などでよく言われる「10000時間の法則」みたいな感じで、ある閾値をちょうどこの頃に超えたのかもしれません。

余談ですが、この「閾値を超えるまで待てる」のが講談社のいいところだと思います。漫画編集者が「普通に回せる」ようになるには数ヶ月もあれば十分なんですが、「いっぱし」になるにはやたら時間がかかります。僕の体感だと早くて5年、普通10年、遅いと15年かかる。これが普通の企業には待てない。過去の膨大な名作が利益を生み出して、その利益を新作開発にどんどん注ぎ込み、その現場に編集者を立ち合わせ続けることで花開くのを待てる…この鉄板のサイクルが回っている。これが、なかなか真似できない講談社の強みだな、と思います。

さて、なんか掴めてきた感、ヤンマガの誌面、自分が付き合っている作家さん、自分の特性…その他諸々の要素から「ヤンマガに異動したらなんかすごくやれそう感」を感じていたわけですが、実際に『中間管理録トネガワ』『1日外出録ハンチョウ』『食糧人類』などのヒット作や、すごく好きな作品の数々に恵まれ、自分の編集者人生の中でも濃密でハッピーな3年間となりました。

https://youtu.be/SUiWGBTPDtE

『ハンチョウ』の鼻歌を歌ったり…伸び伸びやってるのが伝わってきます。

入社15年目前後

そんな感じで、会社に長い時間をじっくりかけて「いっぱし」にしてもらったわけですが、そのくらいからようやく「周り」が見えてくるようになりました。「周り」というのは、編集部や会社はどんなビジネスモデルで収益構造か、とか、どういう人がどういう業務に向いているのか、とか、そもそも漫画ビジネスはどんな仕組みで支えられていてどんな課題があるのか、とかそういうやつです。逆にいうと、それまでは仕事が麻薬的に面白かった&目の前の漫画を面白くすることに必死すぎたので、「そういうことは誰か偉い人が考えてくれてるだろう」って感じでした。

出版/編集部という完成されたシステムの中で作品を通して結果を出すことから、そのシステムを支える人々やその向こうにある社会など全部を含めて「何をすればいいか」を考えるようになったというか……今振り返ると、この頃にようやく「社会人」になったって感じがします。もう35歳超えてましたが。

そんな僕が、当時興味があったのは電子書籍市場とマンガアプリについてでした。というのは『アポカリプスの砦』という作品がマンガボックス掲載を機にヒットしたり『食糧人類』が電子ですごい勢いで売れたりして、自分の担当作にも周囲にも大きい潮目の変化が起こっていたからです。(その辺の経緯はコミックDAYSのブログでも書きました )

当時、講談社はマンガアプリに乗り遅れていて、まだ社会人になる前の自分は「そろそろやったほうがいいと思うけど、誰かやらないのかね〜」と無責任に思っていたのですが、社会人ぽくなってきていた自分は「よし、自分で色々調べてみよう!」と、社内研修制度を使ってデジタル営業部に5日間ほどお邪魔したのでした。

これがまあ、楽しかった!デジタル営業部の方にとってはそれが当たり前で日常だったと思うのですが、それまでの出版の常識で凝り固まっていた自分からすると、目から鱗につぐ目から鱗。デジタル市場が大きくなるにつれ、周囲で起こっていたよくわからない現象が一体どういうメカニズムで起こっているかが見えてきてめちゃくちゃ興奮しました。そして、その延長線上、この流れでいくとこれから出版界はこうなるな、ということもボンヤリと見えてきました。が、それをかいつまんで話すには情報量が多すぎるし、何より一回ちゃんと形にしないと自分でも全体像がわからない!

というわけで、僕は研修中に付箋に書きつけたメモ(ブロック付箋を2個くらい使ってました)を、研修終了後の金曜夜、自宅でFBI捜査官のように机に並べました。それらを整理して文章を書き進める作業が楽しくて、土日にガツガツ書いていたら、日曜深夜にはA4で25枚くらいの長大なレポートができていました。昔から、よくわからないことを自分なりに調べて「目鼻をつける」のが好きで、はっきり言ってこのレポートを書いたのもほぼ趣味でした。

休み明けの月曜。自分の労作をみんなに読んでほしい気持ち9割、「これは編集部にも有益だろう」という気持ち1割で、完成したレポートを当時所属していたヤンマガ編集部に一斉送信。すると、そのメーリスに入っていた役員がそれを他の編集部に転送し…などと繰り返しているうちに2−3日の間にほぼすべてのコミック編集部に共有されました。僕が研修で受けた衝撃をそのまま味わって欲しかったので、編集者が読んで実感できる書き方にしていたのもあって、反響はめちゃくちゃデカかったです。めちゃくちゃ感想のメールもらったり、ちょっと話聞かせてくれ、と色んな人に飲みに誘われたり。いつしかそのレポートは社内で「ムラマツレポート」と呼ばれるようになり、まさかの自分の名前を冠したレポートの爆誕に、人生何が起こるかわからないな〜、と面白がっていました。

さて、これで僕の中では「電子のこと色々調べて楽しかったの巻、完!」という感じだったのですが、そうは問屋が卸しませんでした。レポートの中でマンガアプリの重要性に触れていたことと、この出来事がきっかけで「なんかデジタルに詳しいやつ」という印象がついたために、新しいマンガサービスを作ってくれ、という話になったのです。マンガアプリに乗り遅れていて何か手を打ちたい中、ちょうどいい担い手が見つかった!って感じだったんだと思います。途方もないことだと想像はつきつつも、根が体育会系の僕に断るという選択肢はなく、よ…よ…よっしゃ…や…やるか…!と「コミックDAYS」を企画し動き出したのですが…

これがまあ、苦しかった! やったことのないことを限られた時間内でゼロから構築していくわけで、プレッシャーも不安も半端じゃない。色々考えて部署横断でやるしかないと進めるものの、組織はそれに対応する形にはできていないので、何か一つのことを進めるにも部署間調整が半端じゃない。馴染みのないことなので、編集部員の理解を得るために必要な資料や説明会の量もすごい。やらなきゃいけないこと、決めなきゃいけないことが単純に超多い。しかも、それまでの漫画の仕事も変わらず続けているという…僕の限界をあらゆる意味で超えていました。新宿で『バーニング・オーシャン』という、油田火災で大変なことになってる映画を観ながら「うん…この人より僕はずいぶんマシだ…」と自分を慰めていたこと、リリース直前に盟友のような人と飲みに行った席でその頭に大量の円形脱毛症を発見したこと、など色々と思い出します。リリース直後に取材を受けたのですが、その顔色の悪さを100人くらいから突っ込まれました。

今考えると、アプリ、WEB、そこに掲載するオリジナル作品、投稿サイト(DAYSNEO、後輩の鈴木くんがディレクションしてくれました)、それら全ての運用体制を1年以内にゼロから作る、というのは相当クレイジーだったな、と思います。まあ、それだけ危機感が強かったということです。業績が落ち込んでいる時期だったし、漫画村もあったし、WEBTOONの伸長もあった。出版社の先行きがどうなるかわからなかったし、まさか現在のようなV字回復をするとは想像していなかった。そんな先行きの見えない、苦しい時期に一緒に戦ってくれた人たちのことは忘れられないです。編集部はもちろん、営業部の方のサポートもめちゃくちゃ手厚かった! 組織やシステムや文化が色々と追いついてなくて苦労が多かっただけで、一人一人の人たちは総じて好意的&協力的。ちなみにその後は組織もシステムも文化も追いついて、アプリやWebの運営が非常にスムーズにできる環境が整っています。すごいぜ、講談社!

特に印象に残っているのが、もう本当にリリース前日くらいにある不備が見つかって「これは手動でポチポチ調整するしかない!が、そんなことやっていたら間に合わない!」という時にヤンマガ編集部に「誰か手の空いている方、助けてください!」とメールを送ったら、昼過ぎくらいの繁忙期にもかかわらず総勢20人ぐらいの編集者が「何やればいい?」とゾロゾロ助けにきたこと。『ロード・オブ・ザ・リング』でアラゴルンが死者の軍勢を連れて帰ってきた時に匹敵する胸熱展開に、思わず「いとしいしと…」とゴラム化しそうでした。デジタル営業から部長含め数名が休日出勤で手伝ってくれたこともありました。普段スーツの人たちなので、へ〜、こんな私服なんや…と思ったことを感謝の念と共に覚えています。

ともあれ、そんなこんなでコミックDAYSは無事リリース、毎日のように未知のトラブルが発生するズンドコ期を乗り越え、安定期から成長期へと移っていくのでした。

「不惑」前後

その後、「開発と運用」と「マンガ編集者」という二足の草鞋状態が2年ほど続いたのですが、これが思いの外、自分の性に合っていました。新しいことをしたいという欲求には「開発と運用」の業務が合っていたし、もともと物語が好きな僕は「マンガ編集者」という仕事も大事でした。どっちかだけだと、新しいことやりたい自分、もしくは物語が好きな自分が欲求不満になるから、今のこのバランスはいいな、と思っていました。

が、「DAYSが安定したら離れてマンガ編集に絞ってね」とかねてより上司から言われていたこと、実際にサービスが安定軌道に乗りつつあったこと、一緒に「開発と運用」を担当してくれている後輩編集者が明らかに僕よりも成長フェーズに向いていること、などがあり、検討した結果「現場の編集者に戻ります」と上司に伝えたのでした。

異動先はモーニング編集部。ついに講談社の週刊マンガ誌3誌を制覇!やったぜ!と言いたいところですが、微かに心配していたことが実際に起こってしまいました。

完全にモチベーションを見失ったのです。

二足の草鞋でバランスが取れていたところに、これからマンガ編集だけをやる、そして成果を重ねて編集長を目指す、ということにどうモチベーションを作っていいか、わからなくなったのです。この時、それまで考えてもいなかった「転職」という選択肢が、初めて自分の中にできました(行き先もなかったので本格的には考えてなかったのですが)。

とりあえず異動したてのタイミングで3週間くらいまとめて有給をとりました。その3週間で「実家の福井県まで歩いて帰省する」という謎の計画を立てていたのですが(この一事だけで僕がどんだけ煮詰まっていたのかわかります)コロナで断念。大量に本を買い込んで朝から晩まで読んでみたり、ネトフリで『コブラ会』にハマったり、伊東の温泉宿に1人で3泊してみたり…色々やってみたものの、最終的にはアニメ『映画大好きポンポさん』を観た結果「みんなこんなマジで作品作ってるのに、モチベーション失っただ?ていうかお前、そもそもモーニングでやれんのか?やれもしないくせに、モチベーション云々とか言ってんじゃないだろうな?やれんのか、オイ!」と自分の中の高田延彦に叱責され、「とりあえず、裸一貫がんばってみよう」と職場に復帰したのでした。コンテンツに関わっていてモチベーションを見失っている方はアニメ『映画大好きポンポさん』をオススメします。

そこからは2年間、無心でマンガに取り組みました。『食糧人類Re:』『上京生活録イチジョウ』『こづかい万歳』『僕の奥さんはちょっと怖い』『ワンオペJOKER』『平和の国の島崎へ』『JKさんちのサルトルさん』など、どれも自分が大好きで、なおかつ反響も大きい作品に携わることができました。コミックDAYSの連載作品を決めるという業務も拝命し、数十本の新連載を決めることもできました。フィードバックを重ねてどんどん良くなるネームを見れること、特に若手編集者の成長を間近で見れることが本当に楽しい仕事でした。

しかし、その辺りで僕の中の高田延彦が「あ、やれんのか…」と帰っていってしまいました。2年前に自分の中に設定したテーマには一応の回答は出せた…が、それと同時にテーマ不在の状態に逆戻りしてしまったのです。他の方はどうかわからないのですが、どうも自分は仕事に取り組む上でテーマが必要なようです。現場でテーマ不在のままやり続ける、もしくは、新たなテーマを定年まで見つけ続けることも難しいように感じました。編集長以上になるということにも個人的にテーマを見いだせませんでした。残るは新事業立ち上げなんですが、自分がやりたいと感じる良いアイデアがなかなか出てきませんでした。40歳は「不惑」と言いますが、「不惑」前後は惑いまくっていました。

WEBTOONをやってみたい

そんなある日、久しぶりにWEBTOONをまとめて読んでみようと片っ端から読んでいました。元々WEBTOONには興味があって5年くらい前から中韓に取材に行ったり、定点観測的に目を通していたのですが、2年間「マンガだけ無心にやる」モードに突入にしていたのでしばらく全く読んでいなかったのです。

久しぶりに読んで……読者としても編集者としても面白い!と思いました。5年くらい前だと、ライトに描かれた作品がライト層に読まれている、という感じで、興味があるけどちょっと手を出しづらいな、と思っていました。契約やビジネスモデルの違いもあるのに加えて、自分や自分の付き合っている作家さんが、普段マンガに取り組んでいるような方法や姿勢で参入すると、求められているものに対してオーバースペックになってしまうな、と。ものすご〜〜〜〜く極端に例えると、黒澤明がTikTokに参入する、みたいな双方不幸になるミスマッチが起こってしまうな、と。(一応断っておくと、どっちが上か下かということではないです。)

その頃と比べると、作品のレベルが上がり、ジャンルはまだ狭いながらも多様化の兆しも感じました。作品内容も読者も以前より成熟しているし、これからもっと成熟するな…そう思いながら読んでいるうちに、こんなこともできるんじゃ、あんなこともできるんじゃ、と色んな妄想が浮かんでくる。しかも、自分にとって新しいことでもあり、物語と関係していることでもある。気がつくとヤンマガ異動以来、8年ぶり2度目の「なんかすごくやれそう感」が湧いてきました。

更に。質でも量でも中韓のWEBTOONに比べて日本は2歩ほど遅れている(日本は漫画家の9割以上が横読みマンガを描くのに対して、中韓はほぼほぼWEBTOONを描くので仕方ないのですが)。この状況も面白いと感じました。先行者に追いつき追い越すような作品や、それを産む土壌を作っていく…これは向こう10年間くらい楽しめるテーマでは!?

そして転職へ

……で、めちゃくちゃ省くのですが、転職することにしました。2023年1月よりサイバーエージェント社に入社して、CyberZ社の「Studio ZOON」に参加します。まだ入ってないのでわからないのですが、色んな方と話した結果、真剣にWEBTOONに挑戦できそうと思ってます。

講談社の同僚のみなさんには、年末の多忙な時期に16回も送別会を開いてもらいました。プレゼントとかサプライズのイベントとか盛りだくさんで、こんなん見てたらみんな転職したくなるぞ大丈夫か、と思うほど。ともかく、ありがとうございました。本当にお世話になりました。なんか困ったことあったり困ったことなくても、なんでも声をかけてください。僕の方も用事があってもなくても声かけさせてもらいます。これからもよろしくお願いします。

出だしで「コンテンツ業界への新卒入社や転職を検討されている方の一助になれば幸い」とか殊勝なこと書いていたのですが、その気持ちは1割くらいで
・講談社がすばらしい会社で感謝しかないのでそのことをアピールしたいが2割
・転職することやWEBTOONに挑戦することが、いかに個人的な事情と理由かをアピールしたいが2割
・講談社という看板がなくなって「お前誰?」という状態なので自己紹介をちゃんとしたいが5割
です。

20年間もマンガの編集だけをやって、週刊誌も月刊誌もアプリの立ち上げもやって、その上でWEBTOONだけをやる人って多分日本で1人だと思うので(自分もそうだ!という方、もしいたら連絡ください。お茶しましょう)、そういう人間だから見えることもあると思います。そういうことをこのnoteやTwitterで今後は発信したいと思います。

最後に。日本のWEBTOONは慢性的なクリエイター不足です。先に「質でも量でも中韓に比べて日本は2歩ほど遅れている」と書きましたが、日本のマンガ界の異常な厚みを考えると全体の5%も参加すれば追いつけると思ってます。僕は編集枠としてその5%側になりますので、興味のある漫画家さん原作者さんイラストレーターさん編集者さんそれ以外の方も、ぜひぜひご連絡ください。

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