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従順な妻

ある日の昼下がり、私はいつものように新聞を読んでいた。
 「おい、お茶。」
 「はい、ただいま。」
 ゆっくりとお茶を運ぶ妻。この光景も見慣れたもんだ。
 「ありがとう。」
 「お役に立てて嬉しい限りでございます。」
 私は妻の後ろ姿を見届け、新聞に目を戻す。『進む晩婚』『考える力年々低下』『地球の温暖化と少子高齢化』という文字が大きく書かれていた。昔から問題になっているにも関わらず、いまだ解決できていないようだ。私にはもう関係のないことだけれど、国と世界の行末はやはり気になる。まったく政治家とやらは、ちゃんと仕事して欲しいもんだ。
 仕事。仕事といえば、私が退職してから三年の月日が経った。思い返すと、私は仕事ができる人間ではなかっただろう。受験戦争を潜り抜け、大学を出て、新卒として入った会社。入社式が人生のピークだった。私は希望で満ち溢れていて、会社にとっていらない存在だとはまだ気付いていなかった。パワハラやノルマはなかったものの、パソコンをただ叩くだけの仕事は、人間には耐え難い辛さがあった。当時の私には辞める選択肢なんてなかった。どこに行っても、同じく劣等感に苛まれてしまうだろう、と思っていたからだ。怖かった。なにも出来ない人間だと自覚していたから。私にはもうここしか無いと思っていた。
 ある日、恐れていたことが起こった。出勤すると私の机には何もなかった。優秀な社員が私の仕事を取ったのだ。非生産な社員であることは薄々感じでいたが、それはあまりにも突然だった。

 それから一ヶ月間、記憶にも残らないほどの、薄い日常生活を送っていた。気付いた時には、どう血迷ったのか、無職であるにもかかわらず妻を迎え入れていた。家事を基本無料でやってくれるという文句に惚れてしまったことだけは覚えている。後悔はしていない。妻に対しては、ぽっかりと開いた喪失感を埋めてくれたことに感謝している。妻がいなければ、私はまともな飯も食べられないゴミ屋敷の住人になるところだっただろう。少々古風なところもあるが、概ね満足な夫婦生活を送っている。ほとんど家事をやってくれているおかげで、私の日々の仕事といえば、カレンダーの過ぎた日に、バツ印を書くくらいしかない。
 正直に言うと、この生活は暇だ。思っている以上に刺激がない。旅行に行こうとしても、貯金を切り崩す生活を強いられている私には、夢のまた夢。楽しく過ごせたのは、最初の一年間だけで、あとは惰性で生きているようなものだ。学校のグラウンドで走った日、会社でコーヒーを飲んだ日、なんてことない遠い記憶が輝かしく思える。やはり、できる仕事を探した方がいいのだろうか。そう思っていると、妻が胸を張ってこちらに近付き、私の座る椅子の隣に立った。
 「なんだか暇だなぁ。と思っている、そこのあなた!人間にしかできない、土木業はいかがですか?」
 「飛ばして。」
 「力強さと細やかな仕事。現代に生きる職人技の数々。AIが管理する透明性の高い職場です。あなたも働いてみませんか?興味のある方は、下のバーナーをチェック。」
 「飛ばしてくれ。」
 「基本無料タイプをお使いの方は、月五千円の広告なしプレミアムタイプへアップデートしませんか?」
 「広告をスキップ!」
 「基本無料の掃除、洗濯、料理、給仕に加え、ゴミ捨て、アイロンかけ、子守り、確定申告まで。様々な家事をこなします。」
 「こ、う、こ、く、をスキップ!」
 「今すぐアップデートすれば、あなたの生活が今まで以上に豊かになること、間違いなし。別売りオプションの『令和のエモい彼女セット』も新登場。あなたとの生活がもっと広がる、カイアエーテイの提供でお送りいたします。」
 「おい、聞こえないのか?」
 広告が飛ばせない。SNSを開き、同じく広告をスキップ出来ない人を探した。多くの人があるネット記事のURLを添付して書き込んでいる。リンク先のニュースサイトによると、昨日仕様が変わったらしい。基本無料タイプを使うユーザーは、広告を飛ばせない仕様に変更されたと。まったく改悪ばっかりしやがって。AIに仕事を取られた私が、このAIのために金を崩して払えっていうのか。

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