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【自分史】聖と俗:宗教家だった祖父について〜俗なる側面〜

*フラッシュバックのトリガーとなり得る情報を含みます。トラウマを抱えておられる方はご注意下さい。

昨日の夜、ガラスの器を割った。

つるっと手が滑って、ガシャーン!と粉々に砕け散った。

足元には先の尖ったガラス破片が飛び散り、私は凍りついた。

一歩も足を踏み出せないので、夫に助けを求めた。

私は、「食器割名人」の異名を持つ主婦だ。とにかくよく割る。普通に片付けてるだけなのに、手が滑ってしまうのだ。そして何故か粉々に砕け散る。

「この人と結婚してよかったな」

と心底感じ入るのは、こういう瞬間だ。

結婚後、私は数え切れないほどの器をウッカリ割ってきたが、彼が怒ったことはただの一度もない。器が割れる大きな音に驚いたことさえない。

私が怪我してないかを確かめて、スリッパを持ってきたり、ほうきとチリトリで片付けたり、淡々と対処してくれる。

私が自分でやる、と言っても、まあまあ、なんて言いながら、一緒に片付けてくれる。

買ったばかりの彼のお気に入りのガラスのコップも何度も割った。ビールを入れる用の、うすはりグラス。買うたびに、数ヶ月以内にウッカリ割ってしまうから、うすはりグラスは買わなくなった。

「またお気に入り、割っちゃった、、なんでだろう、、ほんとにごめんね、、」としょんぼり謝ると、いいよいいよ、と言う。モノは必ず壊れるし、売っているんだからまた買えばいい、怪我してないなら大丈夫、と逆に慰めてくれる。

今回も、そうだった。一緒に淡々と対処し、これでもガラス破片が残ってるかもしれないから、1週間くらいはスリッパを履くようにしよう、と、子供達にも言っていた。

子供達も慣れたものだ。あーびっくりした、ママ大丈夫?、器割るなんてよくあることだよまた買えばいいよ、と、慰めてくれる。

器が割れる(正確には、私が落として器を割る)たびに繰り広げられる、この穏やかな静寂に、私は心底の安心感を覚える。

子供の頃も、よく割った。今よりずっと、たくさん割った。母によれば、「あっ!」と言うだけで、怒ってもないのに、怒られたと勘違いして、私はワーン!と大泣きをして、ほとほと困ったそうだ。

小学校高学年の頃だったか、中学生だったかもしれない、そのくらい大きくなってからも、器を割る、という事態は、私にとって恐怖だった。

母が仕事で不在中、食器の片付けをしていた。ガラスのコップを割った。その瞬間、私は恐怖と後悔、無力感に包まれた。

母に怒られたらどうしよう、母を悲しませたらどうしよう、私が割らなければこんなことにならなかったのに、時間を数秒前に戻したい、ああもういっそ、生きていたくない、、そのくらいにまでドガーンと落ち込んで、息が苦しくなった。

布団の中にうずくまり、息を止めようとしたのを、バカだな、と思いながら見つめていた自分を思いだす。

気がつくと、泣きながら眠っていた。

仕事から戻った母が私の部屋にきて、「コップ割れたの、気にしてるんじゃないかと思って。怒ってないからね。モノはいつか壊れるし、安くて気に入ってなくてどうせ捨てようと思ってたコップだし、気にする必要ないのよ」と言われて、やっとほっとした。

と同時に、怒られないんだ、とびっくりした。私が大きくなったからなのか、母が丸くなったからなのか、本当に不要なガラスのコップで割れてもいいと思ったのか、何が要因なのか分からないけど、コップを割ったのに、怒られなくなった。よく分からない。怒られるときと、怒られるないときの違いが、よく分からない。でもいいや、とにかく、怒られずに済んだ。ひとまずは、セーフだった。そう考えて、「うん、わかった。ごめんね。次からは気をつけるね」と言って、また眠りについた。

母の怒りの基準が、分からなかった。同じことをしても、怒るときと怒らないときがある。怒るときは、異常に興奮し、何時間でも問い詰められた。何が母をこんなに興奮させているのか、私の何がいけなかったのか、考えても考えても、答えが見つからなかった。最後には、どうして自分が悪かったのか、ということと、次はしないように気をつける、ということを母の言葉を復唱することで、解放された。「どうして分からないんだろうね」と不満顔で母は立ち去った。

「分からない」

この一言は、トラウマケアを経て、自分が発しやすくなった、お気に入りの響きを持つ、言葉のひとつだ。

精神分析家の先生には、最初から、「わかりません」と言えた。自分が先生のところに通うべきなのか、分かりません。キャシーが本当には居るのか分かりません。自分がいまどうして苦しいのか分かりません。どうしたらこの苦しいから逃れられるのか分かりません。

私は、「分かっていなければならなかった」幼少期を過ごしたと思う。

「分からない」と言えなかった。

母の怒りは、予測がつかなかった。予測がつかないから、不安だったんだと思う。母がどうして怒るのか分からなかったけど、分からないと言えなかった、分かっていないと家に置いてはもらえなかった、だから、分かっている振りをした。

高校時代、2年半に渡った、教員からの性虐待という性被害。その一点のみが、忌むべき、排除すべきトラウマ体験だと思っていたけれど、そうではないだろう、ということも、本当には、最初から分かっていた。

母との関係を見直さなければならない。

家系で引き継いできてしまったものを、次の世代に引き継がないために、私が、「トラウマの浄化」の役割を引き受けなければならない。そう直感していた。

ガラスのコップが割れる音で引き戻されるのは、4歳か5歳くらいのお正月だ。

あの日、母方の実家に親族みんなで集まっていた。普段は県外に赴任して自宅に居なかった、宗教家の祖父を囲んで、お正月の挨拶を兼ねた夕飯会だった。今なら分かるけど、糖尿病で闘病の末他界した祖父は、アルコール依存症だったんだろう。ウイスキーがないことに腹を立てていた。

あのときすでに、緊張感の音が部屋に満ちていた。母も祖母も叔母も叔父も、みんな、祖父に対して、緊張し、怯えていた。顔は和やかで、言葉も明るい、なのに、みんなから聞こえる音はまるで、正反対だった。ビクビクと怯え、なにかが爆発する一歩手前だった。爆発物処理班が、赤か青かどちらの線を断つか、一か八かの勝負に出るとき、映画のそういう場面で感じる、強い緊張感だ。

だから、私は、怖かった。どちらを信じて良いか分からなかった。言葉と、音。

「ガシャーン!」ガラスが割れる音がした。祖父が、酒を持ってこい、と、ガラスのコップを割った音だ。ウイスキーを入れる、厚みのある、祖父のお気に入りのガラスコップだ。祖父の手の中で割られたコップは、祖父の手を傷つけたみたいだった。血のような色が見えて、私は恐ろしくなって、掘りごたつに潜りこんだ。

緊張感の音は、「ガシャーン」をきっかけにあっという間に、音が変わった。

諦めの音だ。「ああ、またか」「どうせこうなる」諦観と無力感、かすかな怒りと反発、そして暴力的な欲求の音。そういう音がごちゃまぜになって私を取り囲み、私はその音から逃れられなかった。

掘りごたつの中は、赤い色だった。みんなの足が見え、息が苦しかった。掘りごたつの中は、赤く、熱く、息ができなかったが、外に出るのはもっと怖かった。私にはなす術もなく、縮こまって、音がまた変わってくれることを祈り続けた。

ああ、そうか。

だから、「器が割れる音」を聞くと、私は極端な恐怖を覚えるのか。

いま、「器が割れる音」がしても、夫の音が全く変化しないことに、救われている。

結婚以来、器を割るたびに、彼の音が変わらないことを確認してきたんだろう。

やっと私は、彼の「音の変わらなさ」の方と、得られる「安心感」の方を選びとれるようになってきた。

【追記】

ウイスキーの入った少し重たいガラス瓶。幼稚園児のとき、祖母が洗面所の高い棚の上のタオルの間に隠しているのを見かけたことがある。

なにかいいものを隠したんだろう、と思った私は、「何隠したの」と聞いた。祖母は、「お酒や。おじいちゃんには内緒やで」といった。

その後、祖父はお酒を探して、私に聞いた。「ウイスキーの瓶、見なかった?」私は、タオルの間にあることを教えた。

あとから祖母にはがっかりされた。「内緒や言うたやん。なんで言うてまうねん。まあ、分からんやろな、、でも、もう内緒やで。その方が、おじいちゃんの為になんねん。おじいちゃんがしんどくなるんは嫌やろ。せやから、内緒にせなあかんねん」

分かった、と私は頷いた。

お酒を探す祖父からお酒を隠す祖母に頼まれて、洗濯機の中にお酒を隠しに行ったこともある。あのとき私は小さかったから、足を伸ばして、ウイスキーの瓶を洗濯機の中に落とした。ウイスキーの瓶は、「ゴトン」と鈍い音をたてて、私からは見えない、洗濯機の闇の中に吸い込まれていった。

「大切な人を傷つけないために」「隠す」「秘密を守る」

こういう関係性の構造を、私は、16歳のとき、性虐待の加害者である教員から、「(性的接触について)誰にも言っちゃいけないよ、じゃないと、みんなを困らせちゃう」と口止めされる以前から、大人との間に結ばさせれていたことに、気がついてしまった。

たった一度、たった一言の、加害者からの言葉に、私は20年間縛られて、誰にも被害を打ち明けられなかったが、なぜ私がたった一言で相手の言いなりになり得たのか、その謎が解けた。

初めて過去の性被害をカミングアウトできたとき、母と姉に言えなかった。夫と兄の支えを得て、伝えたが、最初に私が言ったのは、

「ごめんね。もう、守ってあげられない」

だった。

「ずっと守ってあげたかったよ。でも私もう無理みたい。だから、言うね」

だった。あのとき、母と姉、そして私。どちらの「命」をとるのか、という気持ちだった。

そして、自分の命よりも大切な私の「子供」という存在を得て、私はようやく、母と姉より、「私」の命を優先できたのだった。

「ああ、そうか、お母さんとお姉さんは、幻想を見ていましたもんね。あなただけが知る、事実を知らせて、2人を混乱させたくなかったんですね」

どうして私が最初に性被害サポートセンターに電話したとき、自分の名前すらあかせなかったか、それは母と姉に伝わるんじゃないかと恐怖心を抱いていたからだ、と話していたときに、私の精神分析家の先生が、言った言葉だ。

この言葉を聞いたとき、私の周りを取り囲んでいた硬い壁に、ハンマーで穴が開けられたかのような衝撃を受けた。

「幻想、、、。母と姉が、、、。はい、、はい。そうですね。はい。それは、幻想だったんですね。私は、彼女たちから、幻想を取り上げたくなかったんです」と、ひとしきり泣いた。

私にとって「幻想」というキーワードが、ターニングポイントになって、闇に一筋の光が差し込んだ。今でも私は、心の奥底から、

「幻想なんて見ていたくない。知りたいのは真実だけ」

と欲している。

祖父が存命中、祖父とアルコールの依存的な関係、という真実を、祖父と祖母がまっすぐ見据えていれば、その後に続く、母のアダルトチルドレンという病も、私の性被害も、今私の子供が私に対して感じている、私の不安定な怒りの表出への恐れも、なくせたんじゃないか、、、とすら思ってしまう。 (性被害はどこまでも、「犯罪」で、被害者の生育環境が性被害の必然性としてあるはずはないけれど)

人は、幻想なしには生きられない。

見たくない真実(問題)ほど、高い棚の上に棚上げし、洗濯機という渦の中に放り込む。

でもやっぱり、そうして、見えないように隠された真実は、結局なくならなくて、質量保存の法則のごとく、姿を変え、そこに留まり続けるのだろう。

母は、私を叩かなかった。母が殴られ蹴られ追い出され育ったから。

母は子供の教育に熱心だった。

母が、下の妹弟の世話や両親の世話をするために、高校を中退しなければならなかったから。

母も、虐待のループを止めようと、必死だった。

でも、両親から適切な方法で愛された経験がなかったから、「分からなかった」んだろう。

そして、「分からない」とは、言えなかったんだろう。

いま、私も、必死だ。

私は、「分からない」と言おう。「助けて」と言おう。他者を信じ、適切な人を頼ろう。

今の私は、「幻想」を払いのけ、「真実」を見つめようと決心している。

こういう作業をとても恐ろしく感じていたが、幻想が覆い隠す霧もやの、どこから攻撃を受けるか分からないより、真実をまっすぐ見据え、何が分からなくて、どうすれば分かるのか、「知識」を防具に、1人にならず仲間を得て、立ち向かうことができた今をありがたく思う。

【追記】

母に、祖母の母についてヒアリングをすると、祖父の母の無存在さ、について話が及んだ。

祖母の母、つまり、祖父の義母は、結婚後、妹を連れて家を出た祖父の実母代わりのように祖父を可愛がり、祖父も慕っていたそうだ。

祖父は、実母との関係性の淋しさを、お酒で埋めようとしていたのかもしれない。

もう他界してるから、確かめようはないけれど、「トラウマ」というある種の毒を、質量保存の法則のごとく、世代を超えカタチを変え、引き継いできたのだと仮定すれば、いまの私がこうして、他者さまの力を借りて、「トラウマ」を乗り越えようとすることは、私一個人だけでなく、私の前と後に脈々と続く、血筋の負の遺産の清算にも繋がっているように思える。

母に対して、祖父母に対して、複雑な感情を抱いていたが(それはそれとして、私自身向き合う必要はあるけど)、もっと長い視点で、このどうしようもない悲しみを、見つめてみたい。





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