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現実と空想の狭間で生きる



炭酸水が入ったコップの周りに水滴がつく季節になった。

季節の変化を感じるとnoteをかきたくなるのだろうか、
と前回に引き続き冒頭文を想う。


においやしめっぽさ、薄暗さや雲の形。
わたしを取り巻く空気を通して、わたしの五感がいろんなものを思い出させてくれる。

「この季節がやってきたなあ。」



向こうからやってきたのか、わたしが向かって行っているのかは分からないけど、とりあえず来たなあって感じ。
昨日という今日から一周まわってきたんだって。



1年という区切りがあるから遠い感じがするけど、どことなく近い感じもする。
でもやっぱり

1年の始まりは長くて、1年の終わりは早い。







大人数は苦手で、目の前の人に対して言葉を選べる 1on1の対面が好き。
みんなが理解できる言葉なんていらなくて、純度高く話せる。


ある時、今まで出逢ってきた人たちと繋がっているSNSを扱っていたら、急に内側と外側の温度差が激しくなって、途端にしんどくなった。びっくり
内に秘めていた温度がぐんと上昇したんだと思う。


在りたい自分がはっきりしてきた表れだろうか。



『外の世界を振り切れられるようになれば、このしんどさは無くなるだろうな』
と思いながらも、その能力が身についた自分はまだ存在していない。かなり悔しい。


触れている外の世界が増えすぎたのもあるかもな。
こんな感覚は初めて。


今の状態の自分をうまく扱えてなくて少し心地の悪さも感じる。





平野啓一郎さんのいう、"分人"って考え方よりも、
住野よるさんの描く主人公が言ってた"ふり"って考え方の方がわたしは気持ちが良い。


自分という物質から、
"分人"は切り離せないけれど、"ふり"なら外側も内側も全て私じゃなくても良い、って感覚。

全部"わたし"なんだけどね。
ワタシから私をどんどん切り離していく感じ。


自分を全うできる場所が
現実の世界か空想の世界か、みたいなところなのかな。





おっとりした優しい妖精である私
明るくて陽気なお猿である私
小さくて可愛いらしい親指姫である私


物質的には同じ”わたし”ではあるものの、それぞれ違う”わたし”なのである。

ここなんか難しいな。
(ちなみに、この3つは実際に保育園で演じたのよ☺︎)



"わたしはわたしが好き"というより
"わたしはわたしから生まれるものが好き"



ワタシの中にいる私が増えたのか大きくなったのかは分からないが、今の力量じゃ不可能なとこまで来た。

私は私というものをひたすら生み出しているらしい。やばいな。


もう、収まりきれなくなったし、収める必要も無くなったんだなって。
やっと分かったし、やっと感じた。
この瞬間は今まで感じたことないくらいきつかった。
きついって表現ができるかさえもよく分からないけど、分かることと言えば暗色が全体を帯びてる感じだった。
進化の副作用みたいなものなんかな。しらんけど。そう思いたい。





画面上の私を介して、形を纏った言葉たちが温度も色も一定のまま並べられて、読み手へと運ばれていく。
伝えるって使えないことが結構辛いな、と言葉にしてやっと気付いた。

みんなの見える位置にある箱では対話なんかできっこないんだなあ、できるイメージはあったんだけどなあ、上手くできなかったなあ、、。

私自身の空想の中に生きているのに、変に現実と繋がろうとしてたから、訳がわからなくなったのかなあ。




6年ほど続けたinstagramの投稿やストーリーをぴたっと辞めた。
内の世界と外の世界があまりにも違った。ここじゃないって思った。

"目と目を合わせていないときは伝えようとしないこと"

ここをちゃんと考えて感じていきたい。



私の中にある複数の世界は、いろんな温度といろんな色と形で存在している。それは混ざり合うことはないし、混ぜ合わせるつもりもない。

でも、私という1人の人間の中に複数の世界があるのならば、私を介して、勝手に複数の世界を行き来してほしい。
すんごく楽しいよ笑

時空の管理は激ムズだけどね!!!






才能のあるやつには責任がある

この前かけられた言葉なんだけど、すんごく圧がある。いや、圧しかない。


何様かよってすんごく思ったけど、『わたしがやらなかったら誰がやるんだ』ってスタンスが今のわたしには必要だなって思った。


もっともっと、良い勘違いができる人間になろうと思うし、突き抜けるまで突き抜けて、そのためにいっぱい転けたい。
わたしは繊細で敏感らしいから、危険を察知したらすぐに逃げることができてしまう。今まで上手いことに、良くも悪くも転ばなかったみたい。

得意技は、逃げる
だもんね。







ここ2ヶ月間、少しグレーがかったお金の動く空間にいたんだけど、そこにいるヒトやモノが発する何かが嫌でたまらなかったの
私の大好きなご飯でさえ、疑ってしまうほど。


お金というものが存在しなかったら、食べることへの感謝も食べ物への感謝も生まれづらくなるのかもなって、感じた瞬間があって。
なんかすっごく悲しかったし、これが現実なのかなとも思った。
決して、そこにいる人がきらい、とは名付けるまではいかないけれど、一緒にいると自分自身がきらいになりそうだと思った。


私が私自身を嫌いになるだけで、その人を嫌いにはならない

"好きな人はいるけど嫌いな人はいない"

そんな私の理由が少しだけどはっきり分かった気がした。(少しだけど感覚的にははっきりなのよ)



お金が必要で先々月から働き始めた場所も、親元を離れる手段として先月から住み始めたシェアハウスの暮らしも、自分の苦手とするところや向き合わないといけないところの挑戦と勉強ばっかりで、すーごくつかれた!!


いろんな色の幸せと、いろんな形の守り方、少しだけだけど、振れ幅が広がったと思う。
私の好きな方にも好きじゃない方にも広げられた。
もう十分かな、時が来たって感じ。

まだ幅を広げようとすると流石にしんどいから、いま感じられた範囲から自分の適するところを選べる私になっていきたい。

また物足りなくなったら、広げればいいしね。



久しぶりにかいたnoteもブレブレな気がするけど、
今想ってること・感じてることがかけたから良かった。

私のプラットホームをつくって、あたためて、こねて、まるめて、たまにぺったんこにして、またまるめて。愛を少しずつ吹き込んであげる。


今まで、好きをいっぱい感じていたけど、嫌いを感じることで、好きが濃くなっていくなって思ったよ。
"嫌い"が存在する幸せを感じられる自分が出てきて嬉しいな。


ちょうど良いところ探しの毎日だな。
みんなでゆるりとたまに頑張りながら生きよう。

雨降ってるしお腹空いたから、実家に帰ろう。


今日もわたしは理想と現実の狭間で生きる



おやすみなさい。


もも

いただいたサポートで美味しいメロンパンを買いたいと思います。(^^)