一汁一菜
のっけから申し訳ない。写真は一汁二菜である。
子どもの頃からよく食べた。
いや、よく食べさせられた、という方が正確かも知れない。
食事の時に「もっと食べろ」と口喧しい母であった。母は山形の農家の娘、米と果樹を作る貧しくはない家で育った。自給自足の出来る家、どんな時にも食べる物がなくて困ることは無かっただろう。
終戦前に歳を偽り奉職した現上諏訪日赤病院の前身である海軍病院での食事は粗末だったと一度だけ聞いたことがある。南方で海の藻屑になった長兄に会いたく従軍を志した母には食事の粗末は関係なかったのであろう。したくもない国の喧嘩に駆り出された長兄の苦労や苦悩を想像すればなんともない事だったのであろう。
私の子ども時代は決して恵まれていなかったのではない。でも、当時そんなのを着る仲間はいなかったのに、肘や膝、尻に当て布をした服で登校した。兄のお下がりだった。兄も人からの貰い物であった。お下がりのお下がりだから傷むのも仕方ないだろう。
『もったいない』の母であった。食べる物も着る物も『もったいない』の母であった。
母はいつも残り物を食べ、兄と私に不自由はさせなかった。そして、「もっと食べろ」と言うのであった。逆らうことも残すことも許されない勢いの体育会系で育てられたのであった。
だから食べたくとも食べることの出来ない経験は無く、『もったいない』が身に染み付いている。
ゼネコン時代に起きた阪神淡路大震災の翌日には上司から片道切符を手渡され着の身着のまま一か月の間、神戸支店の人となった。その翌々日には会社所有の船で食料品が毎日届くようになり、余る弁当がもったいなく、毎食2個の弁当とカップ麺を食べて一月後に大阪支店に戻ると「太って帰ってきたのはお前だけだ」と支店長に言われた。
母は15歳で終戦を迎えた。2年間の奉職で長兄に会う夢は叶わなかったのである。それから山形に帰り数年間農作業を手伝い、父親に背中を押されて東京へ行き看護師を続けた。そして、岐阜県の御母衣ダムの診療所に派遣され父と出会った。その数年後に兄と私はこの世の空気を吸った。
今両親に感謝する。
普通に飯を食わせてもらって生きて来れたことを。
いつも温かな飯を食わせてくれたことを。
当たり前のそんな時間を作って来てくれたことを。
そして私はそれを継いでいく。
父母がそうしたように継いでいく。
子に孫に未来に継いでいく。
皆がそうあって欲しい、ただただ、そう思うのである。
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