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北の国からの便り

昨日、ゼネコン時代の大先輩からLINEで写真が一枚届いた。
「これが来年三月までとけることのない根雪になる」と。
住まい近くの札幌市内の公園だと言う。日本の広さを感じずにいることは出来なかった。

私より10歳ほど年上だと思う。当時の私のいた会社は野球部、バスケットボール部が強く野球では都市対抗に常連、バスケ部も何度も全国優勝を飾るチームだった。
この先輩はバスケ部出身、身長は180cmほど、バスケ選手の中に入れば決して背は高くない。しかし逆三角の背中とパンチパーマいつも鋭い眼光は知らない人が寄りがたいオーラを発していた。
引退後、場外からの応援があまりに上品過ぎて選手じゃないのにテクニカルファールを食らって退場を仰せつかったことで有名な人だった。

この先輩にも迷惑をかけた。昭和の代表選手にも選出されてもおかしくないモーレツ営業部長の下にいた頃、京都本社のセラミックの会社の北海道工場建設の仕事が決まる前だった。夕方会社に戻ると「この図面を札幌支店まで届けて来い」とその部長から言われ伊丹からの最終で千歳に飛んだ。翌朝早くに初めての札幌の朝を一人歩き、時計台まで行きその足で札幌支店に行った。

そこでこの先輩と初めて会ったのである。見た目と違う優しい先輩であった。この時は図面を渡して打合せを済ませて私はお役放免であった。そこに来ていた小樽営業所長に「宮島君を案内してあげなさい」と一言、そのまま小樽観光して、美味しい魚介の昼ご飯をご馳走になって大阪に帰った。

大阪で上司の部長と札幌での別件で大喧嘩をし、1週間会社に行かなかったことがある。その時に間に入って私を会社に戻してくれたのがこの先輩だった。
とにかく面倒見の良い方だった。

ところで、当時の会社の野球部の選手は午前中仕事をして午後はグランドに向かった。仕事は野球なのである。でもこれが定年まで続くわけではない、当たり前だが野球部を引退した後に仕事でとても苦労する。これをOB達が全力で応援していた。一般の職員の中でも今は薄れてしまった社員を育てようとする風潮が強くあったのである。
バスケ部の連中は定時まで通常業務に当たりそれから夜遅くまで練習していた。それで全国優勝を果たしていたから大したものだと思う。ならば、引退後はなんの苦労もなくやって行けるように思うがそうでもないようだった。なかには脳ミソまで筋肉の奴がいる。先輩達は親身になって面倒を見ていたのであった。

先輩は定年し、私は会社を辞めて設計事務所で営業をしていた。家具屋の新築工事の打合せで札幌に行った時にもすすきので飲ませてもらった。
先輩が大病を患った時には岡山の先輩と見舞いに行き、またすすきので飲ませてもらった。もちろん先輩はベッドの上だった。

出来の悪い後輩の私をこれでもかこれでもかと面倒を見てくれたのである。
今は昔、昭和の時代にはこんな男がたくさんいた。戦後の高度成長はなるべくして右肩上がりに登って行ったばかりではなく、こんな男たちが出来の悪い男たちを引っ張り上げて戦力に育て上げていった結果も手伝っていると思う。

今は欠ける、今の元気のない日本に必要なのはこんな事なんじゃないかと思う。

忘れた頃にやって来るこんなLINEでまた先輩にケツを叩かれるのである。
心地良い体罰である。
でも、私が好きなのは決して男じゃないですよ、、、

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