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冬に美味しい『さかな』

還暦を昨年迎えたが、若い頃から魚料理をする機会に恵まれた。

大学に入学するまで魚市場の仲買で働いていたことがある。当たり前であるが魚屋の朝は早い、寒くて汚れてまあまあ危険も伴ういわゆる『3K』の仕事だった。

その分、実入りはよかった。先輩方も気前よく飲みに遊びに連れて行ってくれた。夜遅く朝早いショートスリーパー向きの仕事であった。

季節ごとの美味しい魚をたくさん食べさせてもらえた。新鮮なものを生で食べることが一番ではないことも教えてくれた。

この頃から干物が好きになったのかも知れない。

写真はスーパーマーケットで手に入れやすいカラスガレイの煮つけ、これは人に売るほど煮付けていたことがある。

そのことはいつの日にかここで話しようと思う。

昨年の今頃だった。松山市公式俳句投稿サイト『俳句ポスト365』での投稿文章は『蒸鰈』が兼題だった。

月に二度のルーチン、私の頭と心の記憶の引き出しを引かせる夏井いつきにいつも感謝している。


今週のオススメ「小随筆」 お便りというよりは、超短い随筆の味わい。人生が見えてくる、お人柄が見えてくる~♪

海の旨みが十分に染み込んた蒸鰈は焼くとふっくらして塩の旨さと白身の甘さがなんとも言えない。

家内は白飯と言うが私は何と言っても日本酒、それも夏でも熱燗である。

蒸鰈ではないが魚は蒸したものが一番美味いと、かつて歳上の女性に教えてもらった。

もう四十年以上も前のことである。

台湾に血のつながらぬ母がいる。只今御歳93歳、名前は黄絢絢(コウケンケン)私の母の親友である。

看護師同士の二人は五十年前のケンケンの研修による来日でお互いの恵まれなかった生い立ちの共通点から深いつながりを持った。

私は17の歳で一人台湾に渡航した。と言ってもたった二週間であったが。

世の中に背を向けていたいた私は高校を卒業したら中華のコックになりたかった。大学で使う時間四年間を台湾に行かせてもらうつもりであった。

そんな私に母は高校を休んでケンケンの所へ行って来いと言った。

四月の台北は雨季に入っていた。市内にある松山空港に夜独り降り立った。湿潤な空気のロビーには数年ぶりに会うケンケンが手を振って立っていた。

二週間、ケンケンに諭され、説教された。そして忙しい合間を縫って観光や食事にも屋台から圓山大飯店まであらゆる場所に連れて行ってくれた。料理店での体験学習もさせてもらった。

その時私には中華料理店を経営して障害を持つ兄をそこで働かせたいという漠然とした考えがあった。本当に子どもの考えであった。

その時、ケンケンに聞いた魚の食べ方である。日本でならば鮮度の順に一番は間違いなく『造り』となるであろう。それが中華料理では一番は『蒸し』だと教えられた。そして『造り』、続いて焼く煮る揚げるの加熱になるそうだ。

香草とともに蒸された白身の魚は美味かった。塩だけの味付けであるのは私にも分かった。強い火の上で中華鍋を振るばかりが中国料理でないことを知らされた。

それから数年後まだ考え定まらぬまま東京の大学に通っていた。そしてまだ中華料理とは縁が切れることはなく、大学で入った合気道部の先輩に誘われるがまま大学の近くの中華料理屋なのに『墨国』というヘンテコな名前の高級中国料理店でしばらくアルバイトをした。

皿洗いが中心であったが、最後の頃にはラーメンを作らせてもらったりしていた。

高級なアワビもフカヒレも干物である事、広い中国では内陸で生の海魚など食べれないから考えれば当たり前のことであるが教えてもらう事には新鮮な事が多かった。

そして、蒸し器の上のセイロからいつも湯気が上がっており、注文が入ればすぐに料理にかかれる。

ここでの餃子は冷蔵庫から取り出した生餃子を一度セイロで蒸して中華鍋で焼き目を付けてお客さんに出していた。厚めの皮はふっくらして旨い餃子であった。今も付き合うその先輩のおかげでいろんな勉強が出来た。

今回の『蒸鰈』、蒸して干すなんてのは最高の贅沢品である。海水を呑み込みエラから吐き出しながら海の滋養を取り込んだカレイのその白身は天日のもと海の凝縮になり変わる。それを焼き、喰らい、呑む。生きていてよかったと思える瞬間である。/宮島ひでき


手間がかかるからそれなりに高価だと理解している。

漁師一家の主人の手で水揚げされた魚は家人の手により捌かれきれいに塩水で洗い、浜で干す。出来上がった干物は冷蔵トラックに載せられて高速道路を走り町にやって来る。

食卓で私たちが海を満喫するまでに多くの人たちが携わっている天の恵みを私は頭から尾まで残さず食べる。

感謝しながら残さず食べる。



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