見出し画像

切り取ったある日常の時間『立ち飲み屋〇(マル)の話』

立春は過ぎ、暦の上では春がやって来ている。
メリハリのない最近の気候にマルは客の心をかっちり掴む美味いアテを考えていた。
毎日昼前に近くの市場まで買い出しに行く。鮮魚・精肉・青果・乾物と一通り店の品々との挨拶は済ませ、新鮮な材料を調達し、大きめのザックに詰め込み献立を考えながらいつもの道を歩いて帰るのであった。
そして気にも止めなかった公園がいつもと違うのに気づき足を止めた。

なんと、本当の春がこんな近くにやって来ていたのである。終わりかけた蠟梅に咲き始めた梅はその白を重ね、その向こうには南天なのかナナカマドなのか熟れた赤い実がついばむ小鳥たちがやって来るのを待っていた。「ああ、綺麗」思わずマルは口から言葉を漏らしていた。そして時間を確認して公園のベンチに座った。気がつけばこんな時間はマルにはずっと無かった。生きるために店を切り盛りし、一人息子の太郎、不登校の太郎の先を考えて毎日は過ぎて行くのであった。
どこの親でも考えることをマルも一人で同じように悩み考えていたのである。

まだ二月ではあるが風の当たらぬ陽だまりのベンチでマルは忘れていた何かを思い出すかのように陽を全身で吸収していた。
そこに聞き慣れた声で「マルさ~ん!」と太郎の中学の担任のレイが手を振ってやって来た。
「マルさんのお宅に伺う途中だったの。マルさんちょっとそのまま待ってて」
そう言い残して10分もせずに帰って来たレイの手にはコンビニ袋がぶら下がっていた。
「マルさんとずっとこんなことしたかったの」とレイは缶ビール 2本と肉まんをベンチに置いた。

「マルさん、どうぞ」
その容姿、20代の若い女性教師とは思えないレイの行動にマルは時々驚くのであった。
「レイちゃん、仕事中にいいの」
「大丈夫、太郎君の家庭訪問って学校には言ってるし、私、お酒に強くはないけど顔に出ないし、学校ではまだずっとマスクしてるから」
マルは実は飲みたい気分だった。
太郎の卒業のこと、その先のことをちょうど考えていた。
そこにやって来てくれたレイだったのである。

「太郎君、変わりないですか」
レイが先に口火を切ってくれた。
「ええ、良い意味でも悪い意味でも相変わらず」
「良かった、ここで聞けて良かった。今日はこのまま私は失礼します」
雑談でしばらく時間は過ぎ、レイがまた先に口を開いた。
「夕方また伺います、客として」

「レイちゃん、あ、レイ先生」マルが口を開くとレイは遮った。
「マルさん、いえ、お母さん、太郎君は大丈夫ですよ。私これでもプロですから、同じような子を何人も見てきたから」
そしてレイは言った。
「学校がすべてじゃないです。お母さんが一番よく分かっていると思います」

レイは今日のマルにとってはこの気持ちの良い晴天のようだった。
マルは店に着くまでに今日の一品は決めていた。
青空のもと太陽の光をそのまま花の黄色に閉じ込めたような菜の花にしよう。菜の花と鶏ハムを和えよう。
レイと太郎に美味しい菜の花のパスタも作ってやろう。
そう考え店に向かったのであった。

早春のまだ冷たい風はマルの頬をなで、明るい予感を感じさせる午後であった。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?