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レイは大のパスタ好き! 『立ち飲み屋〇(マル)の話』

🍶下の『涙のキャベツの千切り』から続いています。

「タロー、タロー!」
マルは二階の息子太郎に向かって叫ぶ。
「なに~?」
とまあまあ元気な声だけが返ってくる。
レイ先生が来てくれたから降りて来なさい!」
マルの一人息子の太郎の中学校の担任が様子を見にやって来てくれたのである。
「ダメだよ、今、ド・ク・ショ・チュ~!」
ダメである、こうなってしまったら梃子てこでも動かぬ太郎である。
こんなところは別れた亭主に似てるなとマルは久しぶりに太郎の父親のことを思い出していた。
「先生、すいません。失礼な息子で、、」
「いいんですよ、お母さん、気にしないでください。太郎さんの元気な声が聞けただけで十分です」
担任の名は墨田麗すみだれい三十手前、脂の乗ってきた女性教師である。大学を卒業して教師になってから多くの不登校の生徒と向かい合って来た。その一人一人がそれぞれ抱えるものがあって学校に足を向けることが出来なかったのを見てきた。
まだ世の中を知らぬ中学生である太郎にも、この先にある世界は無限の可能性があることをいつか伝えたいと思っていた。
でも麗はこの母親がついているならばその必要は無いなと気が付き始めていた。

「お母さん、仕込みの途中でお忙しいとは思いますが少しお話を聞かせてもらってもいいですか」
マルに断る理由なんか無い、大事な一人息子を気にかけて家まで来てくれる先生である。
「どうぞ、ここには椅子も置いてないんですが、、」
「いえいえ、私こんなの大好きなんです。こうやって肘をついて身体の力を抜けばホッとしますよ。出来れば、、、」
麗はビールサーバーに目をやりジョッキを持ったふりで手を口にやる。

実はこんなやり取りは初めてではなかった。
墨田麗すみだれいはこの太郎の家である立ち飲み屋マルにやって来るとレイに変わる。
マルはこの店の主人であり、太郎の母であることも失念することは無い。
すべてに抜かりなくプロに徹するのである。
「はいはい、お待ちくださいね」
レイにはプロになる気は無いのかも知れない。
「このポテトサラダください」
カウンターの上に鎮座するマルが作ったばかりのアンチョビ入りのポテサラを指さす。
「マルさんのポテサラ最高なんだから」

レイはジョッキのビールを口にし、中年男のように幸せそうに息を吐き出す。
「あ~美味しい。生きててよかった」
レイは心底そう思うのである。
太郎たちも汗を流し働き労働のあとの一杯の美味さを知れば、今の悩みも煩わしさもすべてどこかに消え去ってしまうことだろう。そんな日がきっと来るであろうと思っている。

マルはレイのそんな気持ちを分かっていた。教師らしからぬ、そして理想を忘れぬレイの性格を好ましく思っていた。
しかし、いつもそれは中ジョッキ1杯までだった。
レイは酒はそれほど強くはない。でも好きであり、ついでにマルのことが好きだったのである。
酔うといつも「この麗って名前嫌いだったんですよ。字画多いし、いつもテストのときに名前書くのに時間かかって損するって思ってた。でもね、いいの麗のレイはレイなの、マルさんのマルと一緒なんだから」
酔うといつもこうだった。
レイはマルの母性を持ちながらの男のような性格に惚れていた。レイは男性を愛せない女性だった。
そんなことには薄々気付くマルであった。

いつもこんなタイミングでテナントビルのオーナーの杉山が入って来てくれる。
今日もである。
「おー、また来てるな。この不良教師」
レイは若い男は苦手だが、自分の父親と年恰好の似たこの杉山とは普通に、いや普通以上に話が出来た。
「失礼な、こんな真面目な教師はいないわよ、ね~マルさんなんとか言ってやって」
「はいはい、」
そう答えながらマルは手を止めなかった。
そろそろだと思いながらマルはレイの夕ご飯をこしらえていた。
「先生、これ食べてってね。前に好きだって言ってたよね」
「ま~、いい匂いがすると思ってたら、ミートソーススパゲティ!」
「マルさん、だからだ~い好き!」
レイは子どもの頃に死に別れた母親が作ってくれたミートソーススパゲティが忘れられなかった。その味にそっくりなのがマルの作るスパゲティだったのである。
だからレイは涙を流しながらスパゲティを食べる。鼻をすすりながらスパゲティを食べるのである。
そんなことは毎回のこと、それを知るマルと杉山は黙ってビールを飲むのである。

立ち飲み屋マルはまだ開店したばかりである。


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