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柿と私

今はもう無い愛知の実家に大きな柿の木があった。
柿は毎年たわわに実をぶら下げ、この時期に父から孫である息子あてに段ボール箱一杯送られてきた。
一つ一つ新聞紙でくるみ、几帳面な父の性格をよく表していた。

父は長野県飯田市の南部、愛知・静岡の県境に近い山の中の寒村で育った。
おやつに菓子などが出て来る時代じゃなかったと言い、この甘さが懐かしいとも言っていた。

父の植えた次郎柿は、軽トラの荷台からちょうど手が届くグループと、脚立を使わないと実を外せない高さで私たちを見おろすグループがいた。
私は柿が嫌いじゃないが、父と行動を共にするのがあまり好きじゃなかった。
だから、父はいつも孫を手下につけ柿の収穫に当たった。
得意げな父の声と嬉しそうな息子の声がしていたように記憶する。

晩年、父の収穫姿があまりに危なっかしく、「俺がやるよ」と申し出て残りの柿を私がもいだ。
剪定ばさみの入れ方が悪いと何度も父に叱られた。
腹が立ち、言葉は無視して最後まで黙って柿を切り息子に手渡しした。
「そんな切り方だと来年実はならないぞ」と最後に言われた。

その翌年本当に柿は実を付けなかった。
そして、その年末に父は他界した。
地元の農家の友人に聞けばなぜか柿の不作の年だったと言ってくれた。
でも、私にとっての柿はそんな記憶の引き金になっている。

男親と息子の関係のすべてがそうではないであろうが、父とは最後まで男同士だったように思う。
男として私を見て厳しかった面もあったのだろう。
でもいつまでも私は子どもで父に反発していたのである。

静岡にある神経医療センターの診察の付き添いが最後だった日、父は私に何も言わず診察室に兄と私だけを入らせた。
それが実質の引継ぎだったのである。
私の心情は「売られた喧嘩なら、買ってやる」だった。

父は私の性格を読んでいたのかも知れない。
こんな事が無ければ私は、このあと続いた父の最期、母、兄の事、家の片付け、処分、諸々までやらずに途中で放り出していたかも知れない。

終わった日々を柿の姿を見て思い出す。

甘い柿を食べたら苦い思い出を蘇らせそうであれから私は柿を口にしていない。

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