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ある日の日常 『立ち飲み屋〇(マル)の話』

マルは自身で料理を考える。
余すことなく材料を使い切ることにいつも命を燃やす。
SDGsなんてのがはやりの今、時流に乗った料理人のようで聞こえはいいが、ただのけちん坊なのである。
食べれるものを残すことがもったいなく許せないのである。
だからマルの営む立ち飲み屋の料理は一般の飲み屋の料理とは少し違うかも知れない。そして、マルの眼にはそれを口にする客にも、自身の息子太郎にも厳しいものがあった。

マルの朝は早い、商売柄終いの夜は早くはないが、仕入れる品は朝が早い方が新鮮であって種類も多い。全ては顧客ファースト、客にリーズナブルで新鮮しかも美味しいものを口にしてもらいたいのである。
仕入れから自宅である店に戻る。昨晩の残り香のある誰もいない店内はひっそりしている。今晩の賑わいのためにまるで身体を休めている生き物のよう、昨晩の喧騒は嘘のようである。店のあるじでなければ知ることの出来ないこの空間とこの時間がマルは好きである。

掃き掃除をして、マルは朝食の支度をする。少し遅いマルと太郎の朝食である。太郎が不登校を始めて半年ほど過ぎる。しばらくはやりたいようにやらせようと夜半までパソコンに向かい何かに没頭する太郎を咎めることはしなかった。熱中できることがあるならいいと思っていた。でも朝が弱かった。必ず朝食はともにするようにしていたが、マルの仕入れから帰れる時間もあるので普通の家庭の朝食の時間より遅かった。マルはこれをそろそろなんとかしなければならないと考えていた。

玉子二つの両目焼きにはキャベツの千切りを添え、同じフライパンで焼いたウインナーソーセージを三本、豆腐の味噌汁、客に出張土産でもらった野沢菜漬け、この時間にセットしておいた炊き立てのタケノコご飯がメニューだった。
太郎は朝飯の匂いで目を覚まして部屋から降りて来た。食欲があるから大丈夫だとマルはいつも太郎の踏む階段の音を耳にしてホッとするのである。
太郎がスツールを二つ引っ張り出してくる。立ち飲みのカウンターにそれを並べそのカウンターにマルが料理を置く。必ずいつも二人は肩を並べて食事をする。そして会話をする。こんな時間がそのうち振り返ったら一番幸せな時間だったと感じる時が来るかもしれない。いや、来なければならないとマルはいつも思うのであった。
「母さん、このタケノコどうしたの?」
いつもの白飯と違うタケノコご飯を美味そうに食べながら太郎が言う。
「杉山さんが持ってきてくれたのよ。実家から送って来たんだって」
杉山は同じ商店街の賃貸ビルのオーナー、毎日パチンコ屋で高額な菓子をゲットして「太郎に土産だ」と持って来てくれる気のいい初老の親父である。立ち飲み屋マルのファンである。
マルは太郎と取りとめもない話をして食事を終える。
太郎はそのまま自分の部屋に戻り黙々と何かを続ける。
そして食事の片付けを終えてマルは仕込みに移るのである。

杉山にもらったタケノコで若竹煮を作った。
マルはいつもこのタケノコの下処理をする時に迷ってしまう。
このタケノコは身はどこまで食べれるんだろう、と。
新鮮なタケノコの皮の根元はとても柔らかい。
もったいなく思うけちん坊のマルはこの皮の根元とタケノコの身の部分で店では出せない欠けた端切れを使っての料理を考えた。
別鍋でアクを抜きブレンダーで粉砕してカレーを作ったのである。
炒め玉ネギとタケノコを共に粉砕した固形の具の無いカレーである。
昨晩仕込んだそのカレーは美味しい春の旨味を凝縮したシン・タケノコカレーに生まれ変わっていた。

これはまだ太郎には言っていなかった。
もっとカレーが美味しくなっている晩ごはんの楽しみである。
一人自室で食事してもらわなければならない太郎へのマルの愛情でもある。
マルは母でありこの家の大黒柱でもある。
マルは太郎を食べさせていかなければならないし、一人前の男として社会に送り出さなければならないのである。

店はラジオから流れるどこかで聞いたことのある洋楽と、マルの包丁の動きとともに生まれる規則正しい心地よいまな板の歌声、鍋から漏れる料理の匂いとで幸せに包まれていた。
好きな料理に没頭し、一つ屋根の下に愛する息子と生きていることを感じる開店までの至福の時間なのであった。


もちろんシン・タケノコカレーはバケットとともにその夜、お客さんの口にも入りましたよ。


🍶前回の「立ち飲み屋〇(マル)の話」はこちらからどうぞ!


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