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生きるためにやって来た仕事のはなし

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なかなか理想を仕事とすることは難しいもの、食べるため、生きるためにしてきた私のサラリーマン人生です
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#私の仕事

ほたるのはなし

季節外れのはなしで申し訳ない。 暑い暑い夏の夜に飛び交う『蛍』のはなしである。 note の『傘わっしょい』さんの短歌が好きで、毎晩一首づつ読ませてもらっている。 その中にある昨年末の短歌が私の記憶の引き出しに手を掛けた。 短歌 壁ホタル 人感センサーライト センサーの狂ひし蛍のやうにしてわれはありなむたれからもひとり の『狂ひし蛍のやうにして』とセンサーを蛍に比喩されているのだが、たった一度だけのこと、それも生まれて初めてたくさんのホタルの群れに包まれたことを思い出

道は人がひらく

世の中は人が動かしているとつくづく思う。 そんな事を思い出していた。 最近、ある人から頼まれて日本の道路事情を調べていた。 私はゼネコンにいた。設計事務所にもいた。どちらも建築担当の営業マンだったが土木の事も疎くはない。 でも、国道、県道でいろんな理由から通行困難な道を酷道、険道という言い方があることを知らなかった。 道路法という法律の中、政令で定められる国道、知事が認定する県道がある。 高速道路、一般国道の国道は全国に500ほど、県道に至っては数千もの数があるのだろう。 そ

熱い暑い夏のおもいで(その3)

ゼネコンに入社して5年、自身の希望とタイミングで営業部へ移動した。 建設会社という技術屋の集団の会社に事務屋で入社した私の消去法による選択の移動でもあった。 末端の現場、その取りまとめをする営業所、その上部組織である支店、本社での事務仕事しか社内での私のサラリーマン人生の選択肢はないものと思っていた。 明るい見通しを見いだせなかった私は退職を当時の営業所長に相談した。 「ならば営業に行くか」と私が持ち合わせていなかった選択肢を提示してくれた。 古い体質の業界であり、多くは高

熱い暑い夏のおもいで(その2)

入社三年目の初夏、私は営業所のぬるま湯生活から脱出した。 京都南部、大阪に隣接する町での大手電器メーカーの研修施設の新築工事現場に着任した。 設計施工の工事で大阪支店でも力を入れているメインの現場の一つだった。 当時の現場事務の仕事は事務作業以外の仕事がメインだった。 いわゆる何でも屋であり、地元からの苦情や発注者との対応、現場作業員の安全・労務管理、現場作業の手伝いも行い、その他もろもろの雑用をこなした後に、原価管理の本来すべき仕事は待っていた。 朝一番は現場事務所1階

熱い暑い夏のおもいで(その1)

ゼネコン入社一年目、京都出張所の朝は早かった。 1985年のまだ暑い夏の終わりに京都出張所に着任した。 久しぶりの新入社員はいつまでもお客さん扱いだった。 建設業での事務はどんなものか入社前に想像がつかなかった。 山奥のダムやトンネルの現場に行かされるものと思い、大学卒業前に虫歯の治療だけ済ませた。 しかし、そんな心配はまったく無用な京都市内の出張所の勤務であった。 当時の出張所は営業の拠点であり、現場の統括部署であった。 大阪支店内の小さな支店のようなものであった。 土木

ベーグルのある午後

ベーグルが好きである。 社会人になりゼネコンの大阪支店で営業マンとして働き出した。 世の中が成熟し、日本人がモノに満たされ、精神的にも満たされていると勘違いしている時期だった。 そんな時代とともに建設業界の営業スタイルが変わる過渡期だったと思う。 公共のインフラは整備が整いつつあり、官庁発注の仕事を業界で仲良く分け合って十分建設業各社の腹が満たされる時代が終わりつつあったのだと思う。 民間からの工事受注を拡大しなければならない時代に向かっていたんだと思う。 ゼネコン各社は

人の力でできること

部屋の片付けで出てきた写真です。 この写真が何だか分かりますか? もう25年も前のこと、当時勤めていた建設会社での出張の途中です。 北摂のある学校の資料館を築き上げるために瀬戸内海の小島から外壁用の石を切り出した際の写真です。 長さは17m重さは300tありました。 発注者の熱い思いと、その時の上司の強い意志で幾多の困難を乗り越えてその資料館は四年後に完成します。 安土城を模して造られた資料館のこの外壁の石は一枚岩としては大坂城にある蛸石よりも大きなものです。 切り出しか