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熱い暑い夏のおもいで(その3)

ゼネコンに入社して5年、自身の希望とタイミングで営業部へ移動した。
建設会社という技術屋の集団の会社に事務屋で入社した私の消去法による選択の移動でもあった。
末端の現場、その取りまとめをする営業所、その上部組織である支店、本社での事務仕事しか社内での私のサラリーマン人生の選択肢はないものと思っていた。

明るい見通しを見いだせなかった私は退職を当時の営業所長に相談した。
「ならば営業に行くか」と私が持ち合わせていなかった選択肢を提示してくれた。
古い体質の業界であり、多くは高度成長時代のインフラ整備、官公庁の発注の仕事で成り立つ部分の多い業界だった。
しかし、バブルは終焉を迎えようとしつつあり、経済的には戦後の終わりを意味した。
そして、それは成熟しつつあった国内での建設業界の変化を告げることでもあった。
インフラ整備、官公庁の発注は土木工事が中心となる、それは現在の日本の繁栄の基礎を作ってきた。
成熟した国内での基盤整備に関わる工事は当然減り、各社民間受注にシフトし始める。
不思議なものでそれまでは土木屋が取っていた社内の天下は建築屋に移譲される。
その天下もしばらくすると営業に移る、それくらい官庁から民間にシフトしていった工事受注は難しいということなのである。
どんなに素晴らしい技術を持っていても、仕事が無ければ宝の持ち腐れなのである。

私より10歳年上の経理畑出身の聡明な営業課長の下に配属された。
170cmの私の身長より10cm高く、甘いマスク、しゃべり方もソフトで、社内でも社外で、どのお客さんと会っても悪く言う人はいなかった。
営業の『いろは』をこの上司から教わった。
しかし、慣れるまでは本当に大変だった。
大腸の潰瘍の可能性を疑われ、体重が激減したのもこの時である。
朝から夜まで得意先を回り、聞いた話は全てメモではなく記憶する訓練を受け、帰社して報告書を手書きした。
上司はそれを待ち、丁寧にコメントをくれて書き直した。
遅い時間に会社を出て、毎晩飲み屋でも仕事の話だった。
いい上司と巡り会えたと思っていたが、永遠はやはりなかった。
仕事に金が絡む時がある、その時の対応であり、身の処し方である。
見ないほうがいいことや、知らないほうがいいことが世の中にはたくさんある。
ある時期からそんなことが多すぎたのである。

どんな仕事をしていてもきれいごとばかりじゃ成り立ちはしない。
でもどこまで目を瞑ることが出来るか、どこまで寛容になれるか。
目を瞑り、寛容になることはいつしか自身もそれに麻痺することを意味する。

特殊な世界で見聞きし体験してきたことはすべて私の血肉になっている。
世の中がまだ上り調子であって、過度期の完成されないシステムであったから可能だったことが多々あると思う。
それでも、人を育てることの出来た、いい時代でもあった。

今では出来はしないそんな経験が始まるタイミングは、いつも熱い暑い夏かその入り口だった。
かいた汗で肌に張り付く作業服の気持ち悪さ、どんなに暑くともスーツを着てネクタイを締めて大阪の街を歩いていたことをこの熱い暑い夏がやって来ると思い出す。

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