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熱い暑い夏のおもいで(その1)

ゼネコン入社一年目、京都出張所の朝は早かった。
1985年のまだ暑い夏の終わりに京都出張所に着任した。
久しぶりの新入社員はいつまでもお客さん扱いだった。
建設業での事務はどんなものか入社前に想像がつかなかった。
山奥のダムやトンネルの現場に行かされるものと思い、大学卒業前に虫歯の治療だけ済ませた。
しかし、そんな心配はまったく無用な京都市内の出張所の勤務であった。

当時の出張所は営業の拠点であり、現場の統括部署であった。
大阪支店内の小さな支店のようなものであった。
土木・建築の現場に職員が百名以上いたから出張所の事務はかなりの量があった。
しかし、お客さんの私は毎日退屈な時間を送った。
まだ当時は新入社員の教育システムの整った会社は少なかっただろう。
いずれ現場に放り込み、そこの所長や事務責任者のやり方で一から叩き込むのが仕事を覚えさせる方法だったのであろう。
それにしても仕事が無いのは苦痛であった。
自分から仕事を作るしかなく、先ずは事務所の開錠、終業後の施錠をしようと思った。
事務課長が毎朝7時に出社して開錠する事を知った私は6時半には事務所を開け、たくさんあった机を拭いた。
事務課長は近所に住む出張所の次長を自分の車に乗せて通勤ラッシュで混み合う時間帯を避けるために早く出社していた。
会社の始業は8時30分だった。

そして、自ら申し出て出張所の倉庫の掃除をした。
何年も掃除などされていない倉庫を埃まみれになって片付けた。
雑然と積み込まれた書類を種類ごと、年度順に並べて使い易くした。
そしてその中でもう何年も寝かされた中元、歳暮で届けられていた瓶ビールを発見した。

陽に透かすとオリの漂うビールはほこりを落とし、冷蔵庫で冷やし業務終了後事務課長が、栓を開けた。
年代物のビールは、ビールではないアルコール飲料に変わっていた。
事務所でメートルを上げて近所の居酒屋、タクシーで祇園まで行くのがパターンとなっていた。
世はバブル景気、そんな時代であった。

続いての仕事は、これも誰も手をつけなかった遊休資材を置く京都の南部にあった倉庫の片付けであった。
私一人の力でどうにか出来るような状態ではなかった。
近くに事務所を構えていた協力業者の社長のアドバイスでスクラップ屋を呼んで錆び付いた鉄屑を山ほど運び去ってもらった。
その間私は泥まみれのホコリまみれになって草抜きと掃除をした。
朝から日が暮れるまで一週間ほどで見違えるほどきれいな使い易い倉庫となった。
夏は終わりかけていたが、私は日焼けで真っ黒い一作業員と化していた。
当時トン当たり1万円で取引されていた鉄屑を処分し、スクラップ屋は私のもとに10万円近い現金を持って来た。
その金は先輩の言うなりに、出張所には報告せず、現場の若い連中を集めて焼肉屋で使い切った。

これでいいのかと思うほどの仕事しかせずに給料をもらい、毎晩会社の金で酒を飲ませてもらった。
いろんな上司がいて、現場の先輩方や協力業者のみなさんにいろんな事を教えてもらった。
わからぬことがほとんどで、単独で解決出来ることは少なく、人に教えを乞い、助けてもらう事が不可欠だった。

現在と違い、即戦力などは求められる事はなかった。
社員を、いや人間を育てようという土壌があった。
そこには年功序列の良さも生きていたように思う。
そんな時代に育てられた私は幸せだったのかも知れない。
でもこれが自分の仕事とはずっと思えなかった。

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