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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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#通天閣

顔に傷あるけしぼうず

この note にやって来て約二か月、ずっと自分の記憶の整理をしていたように思う。 母の半生は兄の出生を悔恨し続け、私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」との疑問を拭うことはなかった。 父はお気楽に見えた、当時高額な兄の治療費を稼ぐと長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。 父もゼネコンにいた電気・機械のプロであった。 長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。 それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせる。 そしてそれ

通天閣と雨

家で雨音聞いてる時にゃ、通天閣は濡れている。 仕事にあぶれた姿を目にする通天閣は男たちを思って泣いているのか。 小雨に煙る通天閣を見上げる人は多くない。 濡れる足元を気にしてうつむき歩くサラリーマンたちを通天閣は黙って見やる。 学生時代のこと、雨が降ろうが、槍が降ろうが、二日酔いでも授業はサボっても合気道の稽古は休まなかった。 サラリーマン時代のこと、台風が来ようが、地震が来ようが、二日酔いでも会社を休むことは無かった。 基本的に責任感の強い人間だと自分のことを思っている

秋の通天閣

私の日常の風景となってしまった通天閣、阿倍野筋にかかる歩道橋からいつも立ち止まり見やる通天閣。 もう30年も過ぎているのに、なんの感慨も無く通過する大阪人にはいまだなることは出来ないのである。 初めて行った通天閣、30年前通天閣に酔っ払ってどうしても行ってみたくて京橋から深夜タクシーで行ってみた。 電気は消え、人通りの絶えた通天閣の真下でタクシーを降りた。 まだそんな時代だったのである。 新世界は今のようになってはいなかった。 近くの交差点ではシャブ売りの兄ちゃんが車に向

夏の通天閣

これが夏に私がいつも目にする風景である。 社会人になるまで大阪には縁は無かった。小学生の低学年の頃、兄の診察のため朝早くから車で愛知から連れ出され、兄の診察中の数時間を父と『なんばウォーク』で過ごした。それ以外二十数年間大阪も含めた関西には一切縁は無かった 大学進学も東京に目を向け関西には目を向けることは無かった。 なのに人生は不思議なものである。 ゼネコンでの振り出しは生まれて初めての京都の地であった。 その晩にタクシーで八坂神社の鳥居の元まで乗り付けて私のサラリーマン人

通天閣をなぜ赤く染める

酒を売る商売に賛否はあるであろう。 そのやり方にもよると思う。 でも、私の知る多くの仲間は人を愛し、酒を愛し、万人を受け入れる度量を持って飲食業を営んでいる。 私は依存する人間には酒からは離れることをお勧めする。 この期に及んで飲み屋でバカ騒ぎする人間には大人として酒を飲む資格はない。 本当に酒が、酒を飲む場所が好きであるならば節度を持って酒と飲み屋に接するべきである。 酒と飲み屋を大切にすべきである。 節度を持てぬ客は店主が追い返したらいい、客みんなで「お前は帰れ」と言え

通天閣は六五歳

写真は大阪天王寺から見る通天閣である。 以前の商売柄、こんなことが気になるのだが通天閣の竣工は1956年(昭和31年)、今年65歳なのである。 人間で言えば高齢者の仲間入りである。 私より4歳年上と知るとなんとなく親近感が湧いてきた。 いつもならば週二回この風景を見ながら合気道の稽古に行くのだが、このコロナ禍でしばらく休みにしている。 稽古と言っても口だけで教えているのでたいして体は動かさないのだが、全く動かさないのは体に悪い。 特に還暦を意識しだした頃から体調の

メダカのがっこう

昨日の日曜日、大阪の日中はシャツ一枚で歩いていても汗をかくほどの暖かさでした。 今ぐらいが秋口とならび一年を通して過ごしやすい、いろいろ活動のしやすい時期ですね。 そして、ひと月もすれば梅雨がやって来ます。 社会人になりたての頃、スーツにネクタイでの通勤は苦痛でした。 暑さに加えての雨、革靴を履かねばならぬ足はカビが生えそうで悲鳴を上げているようでした。 クールビズなんてのはまだまだ先のことでした。 サラリーマンの中でもお堅いスーツ姿のゼネコンの営業マンはネクタイを緩め