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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2021年8月の記事一覧

猫とくつわむしの生涯

私が通う障がい者施設は大阪の北摂に近い。 この時期すでに朝夕には秋を感じる。 夕に近い午後にはツクツクボウシもヒグラシも鳴く。 この何年か秋の虫の声を聞いた覚えが無い。 たぶん私の耳は付いているだけで、聞く心が無かったのだと思う。 心にゆとりが無かった。 だから、今年はきっと聞けるだろうと思う。 余裕が無かった自分に気付けたということは多少の余裕が生まれてきた、ということだろうから。 子どもの頃の話、父の実家、長野県の山中の寒村の一軒家のこと。 農家の玄関は時折夜なべや悪

猫といきてきて

何度もここに書いているが、子供の頃から寝ていても気がつけば枕もとに猫がいるような生活をしてきた。 社会人になってからともに生活して来たのは一昨年末にあの世に行ってしまったトラと今いるブウニャンである。 どちらも両親が愛知県豊川市で飼っていた頃には外との行き来は自由で、二匹にとっては快適で気ままな生活を送っていた。 しかし、父が他界して大阪に連れて来てからはそうはいかなくなった。 二匹の母親のように交通事故などで命を持って行かれたくなく、家猫になってもらった。 老齢に近づくと

筆記具とわたし(その4)

母ハルヱの形見となりました。 もう半世紀以上も前に父が買ってきたものです。 モノを大切にする母でした。 認知症で文章が綴れなくなるまで日記を書いていました。 兄が難治性てんかんと診断されてからずっと書いていたと思います。 母の記録だったんですね、兄の日々の病状を綴る。 大学ノート百冊以上ありました。 そのうちの多くを実家を無くす前に回収してきました。 いつか読もう、と思ってです。 でも読めていません。 母の達筆過ぎる筆記体は私に判読不能が多すぎるのです。 いつも使っていた万年

筆記具とわたし(その3)

私が社会人になった1985年、昭和60年コピー機ってものがまだ一般的ではありませんでした。 まだカーボン紙を用紙の間に挟んでボールペンで力を込めて書く作業や、『青焼き』なんて言う元の書類と感光紙を合わせて青色の特殊な光で感光させて写し取らせる夏場にその作業を仰せつかると嫌な汗をかく、わりと場所を取る機械がありました。 でも、各事務所にコピー機が入って来たのは、そのあと早かったように記憶しています。 そうすると、それまでは書き損じると最初から書き直すことのあった書類を書き直す

筆記具とわたし(その2)

多くの男性、いやいや女性も、文房具が好きです。 私の筆記具の収集癖は子供の頃からで、気になる筆記具は手元に残してきました。 万年筆は中学時代、父にもらった万年筆を使い出してからでした。 父が香港出張で買って来た万年筆には、中国の風景、映画アバターの舞台になった武陵源のような山々が描かれていました。 しかし子供用の土産、粗悪品で紙を引っかくような書き心地の万年筆でした。 私はハガキ、手紙を書くことが人より多いかも知れません。 メールよりも好きです。 このヘッダー写真の万年筆は

筆記具とわたし

昨日の『町の本屋』にいただいたコメントを読みながら考えていた。 音を立てずにじわじわと変わってきているものがほかにもいろいろあるな、と。 時代だから仕方がないと済ませる人もいるではあろうがそんな簡単な問題ではないのである。 てなことを考える際に、いつもペンと紙が目の前にある。 紙は何でもいい、B7サイズのノートをいつも持ち歩いているが、なければ何でもいい。 便箋でも、書類や広告の裏面でも構わない。 たいていの場合、身の周りに何かあるから困ることはまずない。 困るのは書く

本屋にもらってきた楽しみ

本が好きである。 でも、実は、もうしばらく本屋に行ってない。 というより、仕事と合気道の稽古以外で家から出ることがあまりない。 この流行り病でご多分に漏れる事なくどの本屋も大変な経営を強いられているのであろう。 それ以前に社会変革であるIT化の波による電子書籍や、書籍の宅送によるシステムが確立したりして、駅前や商店街の本屋が時代に取り残されてしまっているのではと気になっていた。 書籍だけで生き残るのはかなり難しいのであろうと容易に想像できる。  本屋の中にはカフェや居酒屋

夏のみかくの記憶

さあ、昨日の記事の続きです。 陽が当たった温かなブドウの話です。 母の故郷、山形県南陽市赤湯はその名の通り温泉で有名な町です。 そして、ブドウ、サクランボ、米と農業も盛んな町なのです。 私が高校二年の時に自転車で愛知から山形まで行ったことは一度記事にしたことがありますが、上野を通過して国道4号線をひたすら北上し、福島から13号線に入り赤湯に着いた頃にはすでに早い時間の夕方でした。 陽は西に傾きかけ、風が水田の緑を波打たせ始めたようで、その向こうに見える13号線の両脇の山と

夏のみかく

旬の味覚。 秋には敵わないだろうが夏にも多い旬の味。 生きとし生けるもの全てが力強く活動する時期、一番元気な命を頂いているのがこの夏の味覚ということになろうか。 だから私たちは心して頂かねばならないのであろう。 関西に来てスーパーでハモ皮をよく見かける。 高価な本体には手が出ないが安いハモを時々買って酢の物にする。 鱧は自分で料理する魚じゃない、玄人の手で歯ごたえもあるなんとも言えない夏の味覚に変わる。 梅肉で食べるのが定番だが、私はわさび醤油がいい。 暑い時期の梅肉は爽

朝が私にくれるもの

雨の朝も嫌いじゃないが 朝はやっぱり晴れがいい ここ数日続いた雨はわれらの足元の大地を冷やし この朝の空気をも冷たいものに変えた 月は東に日は西に 輝く月は何を見た 昇る朝日は私を起こし 一日の準備を始めさせる 朝起きれたから、生きなきゃならない 生きることに理由は無い 朝の陽は私に強い心をくれる 一日頑張る心をくれる 私だけのわけはない 朝日は誰にも平等だ それを受け取る心には 準備もいるような気もするが とりあえず受け取りゃなんとかなる みんなそれでここまで来たん

『当たり前』に感じるありがたみ

心をとらえて止まないものってある。 それは人によってさまざまだろう。 4,5日前からずっと心に残る販促用の記録映画がある。 しげさんが記事にしていた『窓ひらく』である。 何が私の心をとらえて止まないのかを考えていた。 『一つの生活改善記録』ってあるサブタイトル、お若い方にはピンと来ないであろう。 大正から昭和初期にかけて行われた衣食住の消費生活や、社会習慣全般の合理的改善を目指す社会教育事業である。 そのなかの一つの生活改善記録、私の生まれた60年ほど前の、ある農村での

無駄の必要をかんがえる

昨日の記事に菊地正夫さんから ビジネスに身を置いていたときは、 「効率的」「機能的」「能率的」ばっかり求めてきた。 とコメントのなかにありました。 私が経験してきた建設業界の営業はわりと義理と人情の世界だったのですが、それ以上にノルマのプレッシャーは大きく、気がつけば効率に走り、義理と人情は夢の世界だった時もあったような気もします。 以前はこの暑い時期に母、兄に会うために愛知まで車を走らせ、帰ると車体には虫の死骸がたくさん張り付いていました。 そんな季節です。 やむを

人の心をつかむには

これまでずいぶんハガキや手紙を書いてきたと思う。 パソコンや携帯電話が普及してから一時期はメールが増えたが、手書きのハガキや手紙をやめてしまうことはなかった。 こだわりや、意地のようなものがあった。 それに母たちには手書きしかなかったのである。 高齢者介護のグループホームにいた母に毎週ハガキを書いた。 それを楽しそうに一日に何度も眺めていたという。 私には息子が一人いる。 孫は年に何度か、バアチャンにハガキを書いていた。 それこそ盆と正月である。 息子は小さな頃から絵心

盆と正月くらいは

残暑なんて言葉を忘れそうなくらいに涼しく、不順な天候が続く。 少し前まで『盆と正月くらいは』というフレーズを時折耳にしたような気がする。 盆と正月がそれくらい希少なもので大切にしなければならないものなのであろう。 そして、その時くらいは… 、と許されるなにかを日本人は持っているのだろう。 両親が健在の頃は必ず盆と正月には帰省した。 盆に都合がつかなくとも、正月には必ず帰っていた。 両親はそれなりの料理を用意して、成長した孫の顔を見るのを楽しみにしていた。 何をするわけで