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処世術 ー炎に背を向けろー

最近、自分の良さを打ち消すような仕事をしていると感じる。自由で、クリエイティブに、思うがままに脳内スパークを迸らせるのが得意なはずなのに、事務的で、正確性を何よりも求められる仕事をしている。時たま、クリエイティブな方向に頭を使うときもあるけれど、以前の伸び伸びさはだいぶ失われている。

社会人というか、少なくとも今の職場では、独創性はそんなに(あるいはまったく)求められていなくて、地道な確認が必要な、堅実な仕事が求められる。まずはそれができないと、どんなに高い独創性を発揮しても、評価されない。

そんな仕事をしていることで、私本来のタレントが、失われかけているように感じる。Giftedというか。

どうも不思議なのだけれど、様々な道で、自分の好きな仕事をしている人を見ると、あれ、どうして私はこうなっていないんだろうと感じてしまう。
もう41歳だけれど、自分は何にでもなれると思い続けていたら、いつの間にか何者でもなくなりつつある。自分自身の才能や好きなことをして、きちんと、いやサラリーマンの平均年収より遥かに高い収入を得ている人達がいる。真面目に真っ当な道を歩いて来たつもりだけれど、気がつけば、脇道を選んでいった人のほうが、遥かに満ち足りた人生を送っているように感じるのだ。学校で、自分が見下していた先生に怒られてばかりいた人、マイペースな人、勉強のできない人たちに、今となっては自分が憧れている。

もちろん、理由はわかりきっている。自分がどう有りたいか、どうあるべきかを真剣に考え、自分自身と向き合うことが十分でなかったからだ。
自分は何を求めているのか、どうなりたいのか、客観的・社会的な指標に惑わされず、自分自身の心に真摯に向き合うことができなかったのだ。
結局私は、いわゆる優等生であった過去の自分に縛られて、選択の軸が自分の中にではなく、外から見た評価軸に依らざるを得ない思考・価値観になっている。

何度もなんとか方向転換をしようと試みた。けれど、いつの間にかその熱量は薄れ、結局はエネルギーを必要としない、変化のない安牌な道を歩き続けている。根性がないのもあるし、まあいいかと気持ちを自分で適当にごまかし、あしらい続けてきたように思う。こんなことを繰り返しているうちに、そもそも今の自分の有り様を考えないようになって、いつまでたっても人生に充足を感じることができない。

忘れること、考えないようにすることで、自分自身の精神を保っているように思う。考えたら、後悔や落胆の海に沈んで這い上がれなくなりそうで。
それはそれで処世術と言えるのかもしれない。けれど、自分の歩む道は、そんな程度の人生で良いのか、と自分に問いかけたい。

自尊心をバカにしてはいけない。それは、自分にしか持てないエネルギー源だ。その自尊心の灯火を消さずにどれだけ大切に守って行けるか、それが、人生の歩み方なんだと思う。
自尊心の炎を消せるのもまた、自分しかいない。周囲の考えを、自分の考えだと勘違いしないように。同調したっていいことない。他者とあくまで向き合って、背中で灯火を守るしかない。勘違いしてそっち側に行ってしまおうものなら、たちまち自分自身の吹きかける息で、小さなろうそくの火は一筋の煙となって消え失せてしまう。

自分を励ます。励まし続ける。今からでも。遅くはない。
早い遅いの問題でもない。今を生きる自分を大切にすること、それは今の自分にしかできない。
心の持ちよう。なにかに希望を見出して、どこかに光を追い求めて、今の進むこの道の先には必ず何か良いことがあると信じ続けること。
そんな風にして生きて行くしかない。
それが今の私の処世術。