この街

この街のいちばん古い記憶。
革のひび割れたソファの上で白衣姿の祖父の背中を眺めている。
読み飽きた絵本の手触り。あまいトローチ。消毒液の匂い。
小学校に上がる前の私に、大人にするのと同じような言葉で話しかけてくる祖父が苦手だった。
高円寺はいつも静かで、寂しくて、つめたい香りがした。

15歳になり、この街の寂しさの理由を知った私は滑稽な自己投影をするようになった。臭い古本屋で買った中古の学ランを着て、喫茶店の背の低いテーブルに膝を乗せ、むずかしい詩集をドヤ顔で読んだ。そんな自分が好きで好きで、薄暗い美学がわからない人を嫌った。

私はもう大人になって、
サイレンが聴こえても笑ったりしないし、手首の切り方も忘れた。
煙草は格好よくないし、芽を剥くことはすこし恥ずかしい。
陽にあたる喜びもとっくに知っている。

それでもこの街からは、まだあの頃の匂いがする。こぼれた何かを無理やり拭き取ったような、ひんやりと湿っぽい、ペトリコールに似た匂い。
嗅覚は海馬と手を繋ぐ。踏みしめるたび、走馬灯のように記憶たちが光る。そんな何の意味もないニューロンのきらめきを気持ちよく思えるくらいには、まだ私も此処が好き。

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