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凝視する

ヴィム・ヴェンダース「PERFECT DAYS」の劇中歌プレイリストを作って毎日のように聴いてしまう。 
 
そんな「PERFECT DAYS」熱の冷めやらぬ中、この詩集に触れ、意図せずしてそれらを繋ぐ水脈を見る。 
 
そもそも「ドゥイノの悲歌」を知ったきっかけがヴィム・ヴェンダース(ベルリン・天使の詩)だった。
 
リルケの詩の表現や世界観が大好きだ。しかし、特に詩の勉強とかをしてこなかったので、解釈にはつねに「?」付きで、現代アートのように好きなように捉えてしまっていた。 
 
本書の訳者である手塚富雄さんは、そういうことも詩を読むうえでは大切と肯定してくれているうえ、沢山の解説を付けてくれてもいる。 
 
すごく嬉しいせっかくの機会なので、一旦自分なりの解釈で読み通したのち、解説付きで読み直してみる。全く的外れなところがほとんどだったし、教えてもらわなければ分からないリルケの哲学など知れ、詩への理解が深まるとても良い一冊だった。 
 
「マルテの手記」を読んだ時も不思議だなと感じたのだが、リルケは現世に幻滅しているようなのに、同時に生へ讃歌を捧げている。私にはずっとこの2つは対立するもののように思えていたので、ナチュラルにこれらの眼差しがリルケの中に共存することが、私を強く惹きつけた。
 
「ドゥイノの悲歌」を読み、まだ漠然とではあるものの、理解できた。リルケの求める生にとって、“嘆き”や“苦痛”は必要なエレメントなのだ。 
 
生きている人間が喜怒哀楽の中でも喜と楽を強調し、怒哀は抑え込むか忘却せしめようとするのに対し、リルケは、それら全てを“凝視”すること、そのことが揺るぎない“内面世界”を築き、より高次な生(芸術)をもたらす。と、そのように理解しました。 
 
この“凝視”するという、この姿勢はなんとなく「PERFETC DAYS」の平山さんを思い出させる。平山さんは殆ど喋らない、でも、ひとつひとつを見つめている。きっとこれまでの人生もそうだったんじゃないか。 
 
かつ、この詩の捉えどころの無さの要因となっている“矛盾”。「この『たゆたい』を見なければ、この悲歌はけっして本当に掴むことはできない。」なるほどなあ。高次でありながら、あくまでも不器用な人間らしさも残る。ここが私たちを置いてけぼりにせず寄り添ってくるリルケのにくいところだ。好きだ。 
  

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