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パートナーとして結ばれない愛なんて意味がないと思っていたんだよ

そこに降伏、サレンダーする出来事があったので、その話をします。

いまも深まっているテーマなので、書くことで私がさらにわたしのことをゆるし、癒やされていきますように、と願っています。


付き合えなかった恋、終わった愛をぶった斬る癖


はじめての彼氏と別れたことは、半年間濃密に引きずった。食事を全然摂らなくなっていたので出先で貧血で倒れたし、げっそり痩せた。

毎日家でもぐすんぐすん泣き続けていたので、それはそれで、リレーションシップを図りかねていた母との関係が深まる出来事にもなった。同時に、まわりから心配されるから外では泣くなとも言われた。

それは母からの愛であり、呪いであり、母の信念体験に基づくものであったのだとおもう。

実際に、まわりの友達からはとても心配された。みんな、心配してくれて、あの時はほんとうにありがとう。


その後何年か経って、強烈に惹かれ合う関係があった。わたしには、ジェットコースターのような恋だった。文字とおり、沼れる恋愛だった。

だけれど、長くは続かなかった。ふたりの関係の形にこだわっていた当時のわたしには、その関係の覚悟が必要で、そして覚悟できなくて、しあわせになることを受け入れることができなかったから。

自分でコントロール出来ないものを恐れたわたしには、その関係が次第に幸福感から目を背けたいものになってしまったのだと思う。


彼女は、女の子でした。


もつれにもつれて別れた後。これは、2年ほど引きずった。

いま思えば、ずっとその人のことを考えていて、どうしたら復縁できるかな?と延々と考え続けていた。自分を責め続けることにもメリットがあって、そうやって引きずっていることが、コンフォートゾーンだったのね。きっと。


並行して、一度終わりにして、形を変えたくなった愛もあった。

彼はほんとうに優しいひとだったので、終わりにしたくない気持ちを持ち続けたまま、わたしとのリレーションシップを継続してくれた。

彼は唯一、連絡を取ろうと思えば取れる過去のパートナーだった。


逆に言えば、それ以外のパートナーたちは連絡が物理的に取れない。怒り、拒絶、執念などなど、様々な理由で、関係が切れていった。

それらは、わたしの信念やスタイルが反映されて起きたことなのかもしれない。

 

好きで好きで、お互いに想いあっていそうな雰囲気を感じて、それでもなぜだか付き合えなかった恋愛。それは、いくつもある。

その度に、相手とは疎遠になっていった。わたしのきもちからして、その関係が次に進まない、形にならないことに悲しくなって、ぶった斬っていたのだとおもう。


この、なぜだか関係が次に進まないというのは、これはまた別に、わたしが自分の気持ちや想いを伝えることを強烈にブロックしていたから、ということにも最近気づいている。

それもそれで、いまもなお、癒やしと現実の変化が進んでいる。

 

このような感じで、その当時、たしかにあったはずの愛に感謝できず、終えていく方が圧倒的に多かったわたしの恋愛事情で。

鶏卵なはなしだけれど、合理的に、結ばれない愛には何の意味があるのだろう、と無意識な価値観としてずっとあったのだと最近気づいた。


意味がないタイプの愛に降伏してみたときに


さいきん、その「意味がないタイプ」の愛に降伏してみた。

結ばれない愛には意味がないと思っていたので、本当はそこに好意や愛があるはずのところ、たくさんバツをつけてきたものだなあと感じた。

結ばれないというのは、あたまの声(≒ エゴ)であって、先のことは誰にも分からないのだけれど。コントロールを手放した先の、宇宙的なサプライズを許可して招き入れることが怖かったみたい。


それはつまり、体験したことのないしあわせを受け入れることがこわかった、みたいな感じだよ。


降伏してみると、「やっぱ好きだわ〜〜」と自己一致するので、こころとからだがゆるむんだよね。その感情も隠さなくなるので、我慢がない。

ただ、ともに過ごすこと自体にしあわせが溢れて、あたまよりも先にからだが反応する。あ、喜んでるじゃん。嬉しいんじゃん、とか。

そんな感じで、やっぱり好きだなあを自覚したときに、どうしよう、となるわけです。相手には、すでに相手がいるひとでしたから。


そこで、ただ好きという気持ちをゆるし味わってみようと、歩きながら思いました。あ〜好きだな〜と言葉にもしながら、その感情をゆるしてみた。

そうしたら、あっけないほどに全身から力が抜けて、愛で満たされていきました。

後から、意味がないと頭で一生懸命止めていた愛にサレンダーした瞬間だった、と気付きました。


相手から何をもらったか、どういう関係になったかは関係ない、ただ自分のなかで完結している愛の循環に気づいたとき、ほろほろ涙が出てきました。


意味がないタイプの愛に、まだまだ降参したいと思っていて


宇宙はわたしたちの想像を超える形で、よくみたらいちばんうれしい形で叶えてくれたりする。それは、いつ届くのかは分からない。

生きていると、いますぐに叶ってほしい!と思うことも多々あるけれど、順番あってこそ、このタイミングにこの形でやってくるのがベストだった、なんてこともたくさんある。


Howを考えると、左脳のおしゃべりが止まらなくなる。

あれは大丈夫なの?それでしあわせになれるの?などなど。


Howこそ、握りしめた拳をゆるめ、宇宙にウィンクでもしてのんびり待ってたら良い。Whatの想像、そのヒトモノコト自体を考えてさえいれば、良い。

 

それでも、こわいときはある。あるよねー。

そんなときは、怖いと思っている自分をゆるしてあげたらよい。わたしは〜〜〜ということを受け入れられないと思っていることをゆるします、みたいな感じでね。

あとは、怖いと感じなくなるギリギリのところまで手前に戻って、そこで受け取りたい現実を想像したらいい。

わたしも実践の身だから、体感覚でこのキーフレーズ、このイメージングが自分にフィットしたというのが、さらに出てきたらシェアしたいなと思っている。


意味がないタイプの愛、じつは無条件の愛のことなんだと思っているよ


これからどれだけ、無条件の愛をゆるし、受け取れるかな?

これまでもたくさんの無条件の愛のなかで生きてきたんだと思う。

わたし、メチャクチャやべーやつじゃん、と思ったとき。無条件の愛を注いでくれたひとは誰で、どんな愛を注いでくれたかな?

みんなも思い出してみようね。



どうか、このnoteを読んでくれたあなたも、たくさんの意味のないタイプの愛に気づき、無条件の愛をゆるして、愛で満たされていきますように。

わたしの人生を目撃してくれて、どうもありがとう!




普段は抽象画家、コーチング、占星術師をしております。


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