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よくまあここまで俺たち来たもんだなと

果たして、そうもこうもうまくいくと思えば、うまくいかないときの方が多い。そんなこんなで、会社が創立に向かって走っていたのは、2011年、私がまだ東京に来たときの頃であった。 

個人経営で一人で「法人にした方がいいですね」とう話の売り上げを作っていた時のことで、さすがに申告しないとまずいなぁと思ってた矢先、知り合いの友人からの紹介で税理士さんに相談したときのことである。

税金を払うことに対して躊躇がないと言えば嘘にはなるが、単純に私は1人でその話を聞いたときに、いや法人?かっけえんちゃう?と言うような気持ちで、始め(れ)たのがきっかけである。

その時私は東京から上京して間もない時期で、1年半ぐらい経った時であろうか。東京の人生のスタートは目黒であった。友人のマンションに転がり、1週間ほど居候した際、初めて私は同性との同居は無理であることに気づいた。

その後、敷金礼金なんてもっぱらない私は、そのお金が必要ないシェアハウスと言うものを知る。

当時、上京したばかりで、何も知らなかった私は、御徒町にある会社に見習いとして入っていた。 勤務形態は営業。

なんか今思うとアホらしいのだが、その会社は今でもあるのだろうか。
その会社を探したらちょっと見つからないので、いっていいのかどうかわからないが、団地やマンションに向かい、その場で降ろされ、1件1件ピンポンを押し、反応があったところに「これ交換しませんか」と言うような話をする会社だった。

その営業に向かう際に、決まったテンプレートを完全に記憶しなければならず、その記憶研修期間と言う名の要は、ただただセールストークを暗記すると言うような社員研修期間があった。
そうこうしてる私はソレを覚えられず、いや正確にはまぁまぁ覚えたのだが、何かテストで1つが言えなかった記憶がある。そうしてるうちに「いやこれ絶対詐欺やん」て言うふうに思いモヤモヤしてた時、社内に「社員寮あります」みたいな広告を見た。

それがいわゆる社員寮と言う名のシェアオフィスで、場所は新小岩であった。
会社が金を出してくれると言うことで、僕はすぐさまそちらに入りたいと言う旨を伝えて、その日のうちに下見に行った覚えがある。

そこのシェアハウスが、まぁまぁの大規模シェアハウスで、確か180人規模だったと思う。月45,000円だったかなぁ。1人5畳位のワンルーム部屋。そこにベッド、テーブル、クローゼット、テレビなど、一人暮らしには困らない家具家電が据え付けてあった。

すぐさま入居を決め、3日ほど会社に行って、土日を挟みじゃあ来週から営業だねと言うタイミングで、すいません。ちょっと熱が出ちゃいまして…からの出社拒否。
支払われていた給料で、1ヵ月目は何とかなったが、2ヶ月目に社長から電話が入り
「いやーさすがにもう雇えないよー」
と言う話を受ける。で、「じゃあここの場所と退去しなきゃいけないんですか」と聞いたら、自分で払うんだったらいいよ、と言う話で、下にいた管理人さんと名義変更の話を電話で、その社長を交え三者でし、すぐさま名義変更が完了。

ちなみにこんな社員は今の自分なら確実に追い出します。

そのまま半年ほどここに住み続けるのだが、このシェアハウスが相当私には勉強になった記憶がある。

まず最初に仲良くなったのは私が全くタバコも買えないような貧乏だった。当時から喫煙場所が外と言うなかなか先端を行っていた建物であったので、 外に行けば、誰がタバコ吸っていると言う感覚のもと、さも私はタバコを吸いませんよ。ただもらえるならいただきます。と言うようなスタンスで、よく喫煙所にいた覚えがある。

多分その時に知り合った人が最初の友達である。彼は関西の出身で何をしているのかもよくわからなかったが、 もともとここにはそのように
「何をしているかわからない」
大多数を占めているので、あまりさほど気にもしなく、タバコもらっていいすかみたいなノリで毎日話していた。

とにかく、この人には、お世話になった記憶はある。

この中にK-1選手がいたのは事実だし、寮長のような常に服はエディー・バウアーを着ているおじさん。
システムプログラマーをしていると言う人。 ちなみにこの人は今でも交流がある。

広告代理店に勤める、なんかよくわからないけど髪がワカメみたいな、そのシェアオフィスの中でも一番高い部屋に住んでいる人。
その人が1番印象的だったかもしれない。ちなみにお名前はなんですかと聞いたときに、「あ、ピストルです」と言ったのもかなり記憶に残っている。だって自分からあだ名「ピストル」って呼べって言ってるんだぜ。
だから、毎日毎日会うたびに「ピストルさんおはようございます」とか、「ピストルさん、お疲れ様です。」みたいに言っている光景が、日常と化しているのもなかなか面白かった。

さて、ここを出ていく私のきっかけであるが、夜中に眼鏡サンプルをリューターで削っていたときのことである。

「隣から異音がします」と言う苦情がちょっと入り、その都度隣にいた北海道出身の若者にはごめんねと言っていたのだが、さすがに隣の「誰とも関わらないし離さない」女性には謝りもできず、 じゃあ出て行くかーって言ったのがきっかけである。

さすが180人規模の大シェアハウスであって、誰それが付き合ってるとかはもう日常茶飯事だったし、あいつが何を考えているかわからないなんて、陰口も日常的にあった。
しかし私は、波風起こさなく、まずは東京の土台を築こうみたいな感じで、人に左右されることもなければ、 恨まれないような生活をしたつもりだった。

ただそういう上述する友達も多くいたので、まぁ近くで引っ越そうとちょっと駅よりの、その建物よりは駅から近い建物に引っ越した。それが2009年の春先から夏の始まり位だったと思う。

この当時私は、外資系の配送業者のバイトをしており、ただ英語を読めると言う、ただそれだけのことで採用された会社にいて、軽貨物のような仕事をしていた。 担当は文京区。
英文だと日本語の住所は逆さまになる。これを理解できないと言う人が非常に多いらしい。何故かとも思うが、それができない人が多いおかげで、私がここに働けたのも事実である。 前会社で貿易事務をやっていて良かったと思った瞬間だった。

東京の仕事は波に飲まれそうで、仕事が終わり7時位に帰宅する。その後メガネを削ると言う日々が1年ほど続いた。

当時の私はやはり不眠症で、翌朝ぐらいまでメガネを削ることをしてしまい、よく会社に行き、今日も寝てないんだろう?みたいな冷やかしを食らいつつ、上司には危険だから今日は帰りなさいと何回か言われた時もあった。

しかしまぁ30代に入った瞬間の頃で、無理と言うものは結構聞くもので、なんとなくこの日々がいつまで続くんだろうといった漠然な不安もありつつも、ただただ、その日のために生きる。

そのような希望があるのかないのかもわからないような生活をしていたのは、今だからこそ言える話である。

そんなこんなで、私は1年半ほど、時として2011年の春先ぐらいまでは新小岩と言う土地にいた。

今でこそたまにラーメンを食べたいと思い、新小岩のとんこつラーメンの名店に行くが、あの時の金のない状況で、通常のラーメンで替え玉3回ぐらいしたときに比べれば、全部のせで替え玉2回ができる今現状の人生は、少なくとも後悔はしていない。

とは言え、あのときに戻りたいか?と言われれば、正直戻りたくないって言うのも本当で、結局僕は過去を振り返らずに今を生きている人なんだなぁと、自分でも思うのだ。

そんなこんなから顔馴染みが増え、ツケができる店も増え(その街に染まるのがとにかく嫌だった)、そうなるともう引っ越しをしてしまおうと言うことになり、 私はただただ家賃が安いと言うだけで、荒川区の三ノ輪と言う土地に引っ越すことになる。
これがまたまた良かったのか悪かったのか。東京の人ならわかるのかもしれないが。。。(わかりますよね?)
自分でもよくわからないのだが、なかなかカオスの生活を歩ませてくれたこの頃には、自分がバイクと車もあり、駐車場を借りるお金は自分で稼いでいたので、移動に関しては電車を使う事はほぼなくなっていた。強いて言うならば、酒を飲む時ぐらいだろう。

ただ、この頃には少しずつ仕事も増えてきた反面、自分の精神状況は決して良くなかった。
配達のバイトはもう終わっていて、メガネ1本でくえていたのだが、逆に言うとそのプレッシャーで毎日酒を飲みながら図面を書くと言う、あまりよくない生活環境&精神状況であった。

よくSNSで病名を出して自分が困っているみたいなこと言う奴がいるが、私にとっちゃそんな事は日常茶飯事で、ちょっと良くなったなぁと思ったら、何かがきっかけで再発するなんて事はしょっちゅうあった。言うなとは言わないし、むしろそのように言った方がいい。

あと私は、この時ずっと1人でやっていたのだが、理由は単純にそう言う気性のムラっけなどで、人と一緒に仕事ができないと思っていたからである。
昔、いろいろな理由から人と関わりたくないと思うことがしょっちゅうあり、そのような辛い思いをしてまでは仕事をしたくないと言う話なのだが。

たまに人生相談みたいなので、そういう病気のために働けないんですが、どうしたらよいでしょうかみたいな話がよく来るが、正直な話、会社に所属しなければいいだけの話ではあると思う、とよく言う。

まぁこれは私の性格上、勤め人には向かない性格なので、こういう発言になってしまうのだが、務めるだけが正解ではないとも思う。何かをしたいと思った時に、先に何かをやれるかやれないか。

これが一番重要であって、それを実行に移したが、移せないかで人生が変わる。

失敗しても仕方ない、とりあえず自分でやってみることをまずはお勧めするよ。
思ったらまずやってみて。
で、失敗したら失敗したで、また違うことをやればいいと思うんだよね。

行き当たりばったりと言ってしまえばその通りなのだが、少なくとも私はこの新小岩時代から2024年の今までの間、ずっとこのように生きてきた。
本当に多くの失敗もあるし、たぶん明日首つらなきゃいけないかもなー
みたいなことが多々ある人生ではあるが、人にはできないことを数倍ほどやっている気がする。

そしてこの後、私が会社を作るきっかけとなった、税理士とグラフィックデザイナーと出会うのだが、 そこはまた次の話としましょう。


30/07/2024

Bisei

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