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それぞれが持つ記憶。

曾祖父(そうそふ)の話を母親から聞いた。話によると曾祖父は、地域の発展に尽力した人物だったらしい。とくに道路や寺院の造成に奔走したとのこと。

山を挟んだ隣町「大内町」にある「楢淵寺」は、曾祖父が資金面で援助して建立(こんりゅう)した寺院らしい。おしゃれなハットをかぶり、ジャケットを格好良く羽織った曾祖父の銅像?だっけかが敷地内にあるらしい。

僕が生まれた頃にはすでに曾祖父は亡くなっており、彼に関する記憶は一切持ち合わせていない。彼についてのエピソードは母親からのみ聞くことができる。

曾祖父の記憶を持っている人はおそらくもう、母親とその妹くらいしかいないのではないだろうか。ある意味、貴重な記憶ともいえる。

こんな感じで皆が皆、それぞれの記憶をもっている。もちろんそれは楽しかった記憶ばかりじゃないだろう。今すぐにでも綺麗さっぱりと忘れ去りたいほどの嫌な記憶だってある。

そりゃそうだ。僕にだってそんな記憶があるんだもの。でもどんな種類の記憶であれ、“その人だけが持っている”っていう点ではとても大切なのかもしれない。

じゃあ、僕はそんな記憶の束を大切に抱きとめたいと思う。たとえそれが思い出したくないほど嫌いな記憶だったとしても。

記憶とともに、記憶をもとに生きる。人間ってそんな生き物なのかもしれないなあ。

とりあえず、 楢淵寺で待っている曾祖父に会いにいかなきゃな。首を長くして待っているだろうから。


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