誕生日を起点に一年を考える
誕生日というのは、「おめでとう」の数を数える日だと、ここ数年思っていた。
自分がどれだけみんなから慕われているのか、答え合わせをする日。
身近にSNSや、ラインみたいな通信手段が増えたせいなのか、「こんなお祝いしてもらったよー!」という投稿を目にする頻度が増えたからなのか。
自分にとって特別な日のはずなんだけど。
いつの頃からか、無邪気に喜べていた子どもの頃の気持ちは雲散霧消して、その空いたスペースに、なんとなく憂鬱な気分が入り込むようになった。
バレンタインデーにチョコレートをもらえるか心配している男の子みたいな。
そういう気分と、ちょっと似ていると思うのは、私だけかな。
男の子になったことはないけどね。
お祝いしてくれる人も少ないけどいるし、素敵な思い出もあるんだけど。
周りのみんなから愛されてます~!っていういかにもな、人気者キャラでもないので。
こういうちょっと卑屈なことを思ってしまうのだろうか。
お祝いしてくれる人もいるのに、人と比べてしまうと、なんだか人望がないというか、器が小さいというか、人間だめな気がしてくるのだ。
しかし、こう何度もめぐってくると。
そう思うことすら、めんどくさくなる。
なんて子どもじみてるんだ、と思うくらいには私も歳をとった。
誕生日は人にお祝いされなければならない、なんて誰が決めたんだ。
というか、決められているのか?
私がただこだわってしまっているだけなのでは。
ここはひとつ、そろそろ違う定義づけをしてみてもいいかもしれない。
「誕生日は、やりたいことを見直す日」
お祝いの言葉をくれるひとは、たいてい、「素敵な一年をすごしてね」という言葉をくれる。私も、そういう言葉はこれまで何度も、何度も贈ってきた。
けれど、自分の誕生日を一年の節目として、とらえているかといえば、そうでもないかもしれない。
この一年はこんなことができた!
○○歳は~な年だった!
という振り返り方はあまりしてこなかった。
むしろ、2019年はこんな年だった!とか、2020年はこんなことをしたい!とか、西暦の方がターニングポイントとしては大きい。
事始めは、1月。もしくは4月。
自分の生まれた月を起点にして、よし今年はこれを目標に生きるぞ〜みたいに考えたことはない。
でも「素敵な一年を」という言葉の通り、すべてはこの日から始まっているはずで、ここで一旦リセットもされているはずなんだ。心機一転してもいいはずなんだ。
でも、結局そこを起点にすると、なぜかこの一年はぼんやりしている…。
そういう振り返りとスタートとなる月が、もう一個くらいあってもいいのかも。
大体1月に決めた抱負を、12月まで堅実に心に留めておける人はどのくらいいるだろう。
そのためにも、スタート期はもう一つあった方がいい。時期的にもちょうどいいし。
これからは、途中経過の観察と、やりたいことの見直しをする日にしてみたい。
私はどのくらい成長しているかなって。
そこで自分と自分を比べて一喜一憂する方が、なんだかとても健全で身になるような気がする。
でも、なんだかんだ言っても、究極は誕生日は両親に感謝したい日、かな〜。
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