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記憶する葦(追悼文)

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一緒に時代を生きた人たち
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#橘川幸夫

さよなら、蓮見清一さん。

【訃報】蓮見清一氏(はすみ・せいいち=宝島社創業者、代表取締役社長) (1)70年代の宝島・JICC出版局 宝島の蓮見さんが亡くなった。80歳。 私の恩人の一人である。長年、お会いすることも出来ずに、いつか改めて感謝したいと思っていたのに、自分の行動力のなさが情けない。最後にお見かけしたのは、10年ほど前に石井慎二さんのお葬式で、お見かけしたが大勢の人に囲まれていて声をかけられなかった。情けない。 蓮見さんとの出会いは、宝島(JICC出版局)の大西祥一と出会ったことから

「僕の樹には誰もいない/松村雄策」書評 ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309030777

追悼・小林秀樹

追悼・小林秀樹  秀樹が癌で亡くなった。本日、家族だけの葬儀が行われた。一年前に余命3ヶ月という非情な癌告知を受け、治療法もないほど身体を侵されていたが、持ち前のエネルギーと明るさで頑張っていた。  私には実の弟がいるが年の差が13歳あって、あまり兄弟としての時間を共有したことがない。秀樹は、私のかみさんの弟で、私とは4歳の差なので、僕のことを「お兄さん」と呼んでくれた。最初は戸惑ったが、弟とはこういうものなのかと喜んだ。最近では「幸夫さん」と呼んでくれたが、彼が学生時代

さようなら、宮澤保夫さん。

 宮澤保夫さんが亡くなった。宮澤さんは、僕の「時代の友」であり「同志」だった。  2008年7月11日帯広商工会議所青年部創立20周年事業「とかちローカルサミット」が行われた。旧友の後藤健市に誘われて、大喜利シンポジウムの司会をやったり、教育のワークショップに参加したりした。  教育のワークショップは、日本各地のベンチャーな教育関係者が集まり熱気のあるものだった。はじめて出会ったのは、その場所である。  写真で見ると、僕の右隣が宮澤さん。左隣りが教育支援協会の吉田博彦さ

柄沢祐輔の死を悼む。

 柄沢くんの悲報を、Facebookで知った。一瞬、なんのことか分からなかった。これからの未来が待っている柄沢くんと「死」という文字がつながらなかった。  柄沢くんとは、何年か前に、彼が僕の著作を読んでくれて、未来学会のシンポジウムに参加して、僕に声をかけてくれてからはじまった。しばらくして、僕の事務所に建築ポートフォリオを持参して、アルゴリズム建築の話を聞かせてくれた。コンピュータをCADのような道具としてではなく、コンピュータと一緒にデザインをするという視点に新しい時代

追悼・手塚昭雄さん

追悼・手塚昭雄さん  若い時に感じていた「死」は、観念的なもので漠然としていた。自分のことを自覚するようになった頃から、死は、常にまとわれつくアブのように時折、頭の周辺を飛び回る。それは、怖いものであったが、甘美な匂いも漂わせていた。  50歳をすぎると、そうしたイメージは消えていき、より具体的な死と向かい合うことが多くなる。信頼し、大好きだった仲間たちや、肉親の死が日々の出来事の中に、次々と発生してくるからである。  僕の場合は、メディアを通して出会った人が多いので、

元リクの友人たちと信国乾一郎

 先日、元リクで今は楽天の常務やってる、高橋理人くんに会いにニコタマの楽天本社を見学した。昔、祐天寺の小さなビルにあった頃は何度か行ったことある楽天だけど、最新鋭のビルで社内には英語の貼紙があった(笑)。一昨日、元リクで一番仲のよい澤田美佐子さんと会った。昨日は、やはり元リクで、現在は、ローソンHMVの常務やってる大野誠一くんがデメ研に来て、遅くまで韓国田舎料理を食べながらおしゃべり。なんだか、元リクルートの連中と会いまくり。我が家の隣人も、元リクで、大野くんの部下だったとい

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さようなら内田勝さん

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 標題=さようなら内田勝さん 掲載媒体=デメ研ブログ 執筆日=2008年6月 5日 00:24 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ◇直感で面白いと思った時にその渦中に飛び込まなかったものは、やがて何が面白いのかを感知する力を失う。20歳になる直前、僕は「ロック」と「マンガ」という二つの新しいカルチャーの潮流を面白いと直感した。そして「マンガコミュニケーション」というマンガ批評新聞の創刊に

追悼・鹿野谷武文さん(2006年)

2006年11月 4日  デジタルメディア研究所で文科省より受託した調査事業、ODECOの件で長野の教育委員会を回ってきた。新そばの季節で、山の中にある美味しいお蕎麦を食べた。長野には蕎麦が山梨には、うどんがあって、地元の人しかいかない場所に、地元の人だけが食べに来る食堂のような店がある。こういう店は、地元に友人がいないと分からない。友人の家に招かれたような気持ちで、観光のための観光客の気分とは違う嬉しさがある。地域活性化とは、お金さえ落とせばよいという観光客を集めればよい

追悼・大林宣彦さん

大林宣彦さんが亡くなった。享年82歳。 映画監督の大林宣彦さん 肺がんで死去 82歳  私は、大映画監督になった大林さんに、ほとんど興味がなかった。 学生時代に新宿アートシアター(ATG)の地下にあった蠍座で観た、大林さんの初期の実験映画とコマーシャルフィルムの数々に圧倒された印象にこだわりたかったからである。 「Complexe=微熱の玻璃あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って 葬列の散歩道」(1964年) 「遥かなるあこがれギロチン・恋の旅」(1968年) 「EMOTIO

さよなら星ケンイチ

 和歌山熊野の旅先で、イラストレーターの西哲から、栄美通信の星さんが、2018年に、亡くなったことを聞いた。星さんは、私がポンプの編集長をやっている1979年に編集部に現れ、いつのまにか友人になっていた。絵に描いたような、70年代80年代の広告代理店のコピーライター&プランナーであった。調子がよくて、いつも可愛い女の子を連れて、大酒飲みだが全て会社の経費で落として、泣いたり笑ったりして、破滅型のアナーキーなサラリーマンだった。

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追悼・市川昌浩(没・2010年7月5日)

(1)市川昌浩くんの死記・2010年7月10日 09:53  2010年7月8日の木曜日。僕らは、個別に仕事をしていて、毎週木曜日の14時からがオンブックの定例会議だった。約束の時間に市川がこない。これまでも寝坊したりして遅れることはあっても、必ず電話してくるのに、30分経っても連絡ないし、電話しても通じない。  なんだか胸騒ぎがして、市川の部屋には行ったことないのだが、中村さんが以前に家の前まで車で送っていたことがあったので、中村さんと二人で市川の部屋に向かった。瀬田の

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追悼・大久保忠男さん

 大久保忠男さんが2017年3月2日永眠されたという連絡が入りました。  コンセプト・バンクの大久保さん、プロフィール  一ヶ月ほど前に、デメ研に行きたいという連絡があり、約束の日を決めたのですが、予定の数日前に、行けなくなった、という連絡があり心配していました。またひとり、脂ぎってない、すがすがしい仕事人がいなくなりました。  大久保さんは、80年代に、アメリカのビジネスやトレンド情報を収集して提供する仕事をしていました。僕の「企画書」を読んでくれていました。  9

山口さんの死(1969年の学生運動)

(1)1968年のキャンパス  早稲田の山口俊さんが亡くなったと連絡があった。女房にも娘たちにも縁を切られ、下田警察署から身元不明で僕の後輩の古沢正夫ところに連絡があった。携帯の着信に古沢の通話記録が残っていたからだ。アパートでの孤独死で、いかにも無頼の人らしいくたばりかたである。  僕が大学に入ったのは1968年。前年は羽田闘争があり、翌年に東大安田講堂闘争があるという、学生運動のどまんなかの時代だった。あの時代の学生運動は、現場を知らない人たちからすれば、「イデオロギ

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